宝塚歌劇団「急死」記者会見について。その3
警察が介入するかしないか。そんなところで協議中だとは「驚く」というほかない。なぜ驚かないか、あるいは驚くことができなくなってしまっているのか。ニーチェはいう。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)
さらに、いわゆる「フェルマータ」。たった一人を大人数で取り囲み糾弾し抜く。そして「洗脳」していく方法。歌劇団内では「フェルマータ」と呼ばれていたらしい「隠語」。リンチ開始のサインとして「伝統的」に通用していたようだ。
人権問題の観点からみれば世界中で幾ら周回遅ればかり繰り返している日本だとはいえ、ひと目見て瞬時に「これは」と気づく人間が日本の中にもいるだろう。公安警察。
連合赤軍同士リンチ事件を始めとする多くの党派闘争はこれまで度重なり悲惨な犠牲者を出してきた。「粛清」と呼ばれていた。その構造研究一つしてこなかったとは決して言えない日本の公安警察。歌劇団では「フェルマータ」と呼ぶらしいが。
裁判を始める始めないはさておき。警察が介入しないとなるとより一層深い違和感をおぼえる人間が数限りなく出てくるかもしれない。違和感を通り越してもはや絶望。日本の空気はますます沈鬱化していくだろう。あまりにも長期化している大不況と打ち重なって。
カントから次の箇所。
「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・第一部・第一篇・第一章・第六節・P.71~72」岩波文庫 一九七九年)
ラカンによる読解。
「彼の例証が二つの寓話からなることを思い出してください。最初の寓話は、欲望している婦人と不法に情交を結ぶなら出口で処刑されてしまう男の話です。『不法に』ということを強調しておくことは無駄ではありません。見たところ最も単純な細部がここで罠の役割を果しているからです。第二の寓話は、専制君主の宮廷で生活している男が、ある人が命を落とすことになる偽証をするか、偽証を拒んで自分が処刑されるか、という二者択一の立場におかれるというものです。
これについてカントは、カント先生は、全く無邪気に、彼の無邪気な手管でもって、最初の話には、良識のある人ならば誰でも否と答えると言います。誰も美女と一夜を過すために自分の命を賭けたりはしない、なぜならこれは美女を賭けた決闘ではなく、絞首刑にされるのだから。カントにとって、これはあたりまえのことです。
後のケースでは別です。偽証から得られる快楽とか、偽証の拒絶によって課せられる刑罰の残酷さとはまったく別に、主体がここで立ち止まり、思案することは確実であり、偽証するぐらいなら主体がいわゆる至上命令の名のもとに死を受容することも考えられる、とカントは言います。実際、他人の財産(善)、生命、名誉の侵害が、普遍的な規則になるや、人間の世界すべては混乱と悪のうちに投げ込まれるだろう、と彼は言うのです。
ここで立ち止まってこれを批判することはできないでしょうか。
最初の寓話がハッとされられるのは、女性との一夜がパラドキシカルにも、被るべき罰と天秤にかけられ、この刑罰と釣り合う快楽として提示されているからです。快楽にはプラスの快楽とマイナスの快楽があります。最悪の例は挙げませんが、カントは『負量の概念』において、名誉の戦死をとげた息子の死を伝えられたスパルタ人の母親の感情について語っていて、そこで一門の栄誉という快楽から息子の死という苦痛を差し引くという算術計算を行っています。なかなか可愛いものです。しかしながら、見方を変えれば、女性との一夜を、快楽という項目から享楽という項目へと、つまり死の受容を含意する享楽へとーーーしかもこのため昇華は必要ありませんーーー移行させれば、この寓話は成立しなくなります。
言いかえますと、享楽が悪であるというだけで事態の局面は全く変り、道徳的法則の意味が完全に変えられるのです。お解りでしょう。道徳的法則がここで何らかの役割を果たしているとしたら、道徳的法則がこの享楽の支えとなり、罪が、聖パウロが並外れた罪人と呼ぶものになることの支えとなるからです。これをカントはここで見落としているのです。
もう一つ見落としがあります。その論理には、ここだけの話ですが、微細な誤謬があり、これを誤認してはなりません。後者の話は前者とは少し異なった条件で提示されています。第一の場合は、快楽『と』刑罰をひとまとめにして、やるか、やらぬか、が問題です。だから人は危険には身をさらさず享楽を断念するわけです。第二の場合は快楽か『それとも』刑罰かどちらかです。これを強調しておくのは重要です。というのは、この選択は『ましてや』という効果を宿命的に付加し、問題の真の射程という点で皆さんを罠にかけるからです。
問題は何でしょう。普遍的規則の言表に則れば私が、私の同胞という限りでの他者の権利を侵害することなのでしょうか。それとも、偽証それ自体がいけないことなのでしょうか。
ちょっと例を変えて見るとどうなるでしょう。次のような場合の証言について考えてみましょう。国家の安全保障を侵害するという活動のかどで、私の隣人、私の兄弟を告発するよう命令されたとすると、私の良心はどうなるでしょう。これだけで普遍的規則に置かれたアクセントをずらすことになるでしょう。
さて、善の法則は悪においてのみ悪によってのみあるとさしあたり主張している私は、この証言をすべきでしょうか。
この<法>によって、隣人の享楽が、こういう証言において私の義務の意味が動揺し揺れ動く要の点となります。私は真理という私の義務へ向かうべきでしょうか。義務は私の享楽の本来的な場を、たとえその場が空であれ、保護します。それとも私は嘘に甘んじるべきでしょうか。嘘は、私の享楽という原則を善と入れ代えさせ、私に時によって相手によって言を左右にすることを命じます。つまり、私はたじろいで隣人を裏切り同胞を生かすか、それとも私は、私の同胞を守るという口実で自分の享楽を諦めるか、いずれかということになります」(ラカン「精神分析の倫理・下・14・P.36~38」岩波書店 二〇〇二年)
ラカンはソ連スターリニズムを念頭に置いている。全体主義の構造分析として今なお十分有益だろうとおもう。現在進行中のイスラエル極右政権にも当てはめて考えることができる。
また宝塚歌劇団は多くの演出家、シナリオライター、デザイナーらといつでも契約できるわけだが、人気の演目にしょっちゅう出てくる「ナチスの制服」はずっと以前から問題視されてきた。例の「鉤十字」。
例えばどこでもいいが大学構内でその種の演劇の一つも公演するとしよう。一発でアウトだったし今でもアウトだ。ところが歌劇団公演だけが「聖域化」されている。明らかにおかしい。日本国内にそこだけぽつんと「北朝鮮」と表示されているかのようなおかしさがある。絶海の孤島ではあるまいし。もし仮に日本の公安関係者が「北朝鮮」公安関係者を無視してフリー・パスを与えていることが公に知れたらどうなるか。そのくらい激しく軋みを上げる違和感を生じさせないわけにはいかない。上下関係や教育というよりも限りなく「洗脳」というに等しい。
厳しいか厳しくないかが問題ではない。にもかかわらず「上下関係」とか「教育方針」とかいうテーブルの上で議論している限りどこまで行っても堂々巡りするばかりだ。一刻も早く別のテーブルへ移動しないと危険である。