インボイス制度の問題点。中小零細企業並びに個人事業者にのしかかる困難が今後ますます多岐に渡り予想されそうで怖いという人々は当然出てくる。わけても常に非力な末端労働者層。だから「衣食住」といった。基本的人権の観点から。
二〇二三年十一月十九日エントリの「いやな感じ」。
Blog21・嫌な感じ - 白鑞金’s 湖庵
あまりにも無責任なのではと思っていたら。相当数の被害者が出ている「NTTをよそおった詐欺メール」。NTTから何度か送られてくるのはただ単なる「注意喚起」。消費者の側が...
goo blog
末尾辺りでこう述べた。
少しばかり話がずれるかもしれないが、何ともやる気なさそうで頼りなげなNTT労組。以前はこうではなかった。民営化後も何年かは踏ん張っている、ふつうに根気のある人間がいた。NTT労組ではなく「全電通」と呼ばれていた。思い出した。「全電通」は「全逓」と仲がよかった。釜ヶ崎日雇い労働組合の支援集会で一泊した際、早朝の集会で隣同士になり眠い目をこすりながら短い会話を交わしたことがある。
だからといって「全電通」と「全逓」とを復活させればいいと言っているわけではない。これっぽっちもない。今や「比較検討」不可能だとしっかり書き込んだ。
あの日の早朝の集会。一泊した学生有志として隣同士になり「短い会話を交わした」相手は「奈良全逓」から支援に来ていた労働者一名のみ。年齢はさほど変わらない。さらに「全電通」がどれくらい支援に来ていたかはよくわからない。
しかしなぜ当時はまだ巨大な影響力を持ち得ていた労働組合から、数えるほどしか人間が出せなくなっていたのか。ちなみにドゥルーズは未来の管理社会を見据えてこう言っていた。
「特に深刻な問題のひとつが労働組合の無能である。労働組合は、その歴史全体をつうじて、規律にあらがう闘争に、管理社会に対抗する新たな抵抗の形態に順応したり、新たな抵抗を成り立たせたりする余力があるだろうか」(ドゥルーズ「記号と事件・管理社会について・P.366」河出文庫 二〇〇七年)
インボイス制度の問題点は、当初から予想されうる議論のあり方が予想されていた通りに演じきられるしまう事態に立ち至るのがみえみえでありながらまんまと許してしまった側にもある。議論が対話になっていない。ダイアローグになっていない。それなら労組など始めからいらない。
去年の夏の参院選のひとこま。日本の音楽団体四団体がたった一つの巨大政治政党立候補者への支持を公式表明した。日本の音楽団体四団体が外部に漏れない不可視の密室協議を経てわざわざ統一教会支持表明したに等しい。どうしてあのようなことが起こってしまったのか。説明責任を果たせというのはまったく正しい。正しいとおもうけれどもそのまた外部しか知らない単なる市民・部外者としてはこれまで何をやっていたのかと首を傾げたくなったのも事実。
脱構築あるいは弁証法を用いようとするならば、なぜ用いなかったのだろう。ますます首を傾げたくなるほど動きが鈍い。遅刻も遅刻、大遅刻。「駆けつけたらもう終わっていた」。二〇一二年と二〇二一年とを勘違いしているかのように見えた。
「文化」と言っても、例えば中上健次死去を受けて柄谷行人が「日本近代文学は終わった」と言い、大江健三郎死去を受けてもう一度「日本近代文学は終わった」と言って二度も笑いを取っている間に何一つできなかったとは言えないだろうとおもう。日本近代文学が終わったというのは確かだ。マス-コミのいつもの口癖=「社会全体」ではなく、どうしても「社会」と言いたいのなら、その「構造」の中に組み込まれなおかつ卑猥なひっつき虫に取り憑かれたかのごとく年がら年じゅう連動することを余儀なくされている自身の場所から、それぞれの書き手らはもう書き始めているわけで今さら感は拭いきれない。
さらには、ずいぶん弱体化して久しいとはいえ労働組合の中で根気よく人材を育て上げていくということはどういうことを指していうのか。熟練者が初心者に泳ぎを教えるような、あるいは車椅子の操作の仕方を知っている側がその初心者に教えるような、そんな具合が想定されていなくては簡単に動かせるものも動かない。今の日本で横行している問題だらけの「議論」、馴れ合いに終わることがわかりきっている無意味な「議論」ではなく、ふつうの対話を通して組合の存在価値を具体的に知ってもらう地味な取り組み「直し」が必要だろうとおもう。そうでなくてはインボイス制度のどこをどうつつけば相手が浮上してくるのかすら見えてこない。もし仮に見えたとしよう。すでに相手はおそろしく複合している。
そこらへんをもう少し考えてほしい。