新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #6

2024-12-07 17:22:01 | 旅行記/美術館・博物館・アート

だいぶ体調が戻ってきましたので、「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #5」のつづきです。

「旧西田川郡役所」の次に見学したのは、

「旧庄内藩主御隠殿(ごいんでん)です。
リーフレットには、

幕末に江戸中屋敷を移築したと伝わる酒井家11代忠発の隠居所。明治の廃城後は旧藩主の邸宅「酒井伯爵邸」となり、一部が現存します。

とありましたが、酒井忠発公は9代藩主で、11代藩主は酒井忠篤じゃなかったかな? 「旧庄内藩御隠殿」前の説明板にも「11代藩主忠発」と書かれているし、これはどういうこと? そのうち調べてみましょ。
なお、庄内藩の江戸中屋敷は、現在の神田和泉町北東角三井記念病院がある辺りだったらしいです。

「旧庄内藩主御隠殿」に入ると、まずは鶴ヶ城の年表があり、さらに、城下の地図などと共に、ジオラマがありました。

ガラスへの映り込みが邪魔ですが、写真の左上の内堀で囲まれた区画が本丸で、右下には馬出しを備えた大手門が見てとれます。
天守がなく、また、石垣ではなく土塁で本丸や二の丸を囲っているところがいかにも東日本の城ですなぁ。

そして、私にとって重大関心事である「艮(丑寅=北東)の鬼門消し」が写真の中央部、内堀を内側に屈曲させて成立させているのがよく判ります
古地図(上が西、右が北)だと、もっとはっきりと判りますな

あとで、「鬼門消し」が残っているのか、確認するぞ

また、「江戸時代後期の鶴ヶ岡城下」という町割り図(上が北)を見ると、

二の丸から「西御門」を出てすぐ、「旧庄内藩主御隠殿」を含む致道博物館のエリアが「御用屋敷」と表記されていました。
江戸城でいえば「西の丸」のような扱いだったのかもしれませんな

次のコーナーには、なぜか釣り竿とか魚拓が展示されていて、釣りに興味の無い私はさらっと通過してしまったのですが、あとで知ったところによると、魚拓発祥の地庄内だったらしい
Wikipediaによれば、

魚拓は庄内藩が発祥とされ、日本で現存最古のものは天保10年(1839年) 2月に現在の東京都墨田区錦糸町付近で釣られた鮒の魚拓「錦糸堀の鮒」とされている。9代藩主酒井忠発が釣り上げた鮒であるとされ、現在は鶴岡市郷土資料館に所蔵されている。

だそうな
現存最古の魚拓が、殿様が釣り上げたフナだとは、いろいろ驚かされます

それはともかく、「旧庄内藩主御隠殿」は、元藩主の隠居所にして、明治以降は酒井侯爵邸だっただったというだけに、各部屋が広い

現存するのは「一部」だそうですから、往時はさぞかし豪邸だったのでしょう

奥座敷からガラス越しに「酒井氏庭園」を眺めて、

そして、旧庄内藩主御隠殿退出しました。

   

旧庄内藩主御隠殿の隣にある新しめの建物は「美術展覧会場」で、私が訪れたときには、「手のひらに、江戸 檜細工師 三浦宏の粋」が開催中でした。

ジオラマ好き・ミニチュア好き・建物好きの私にとってはたまらない展覧会でした

三浦宏さんは、

浅草の風呂桶職人の家に生まれ、優れた技術で檜風呂や手桶などを製作していた三浦宏(1926-2019)。時代の流れに伴って木製風呂桶の需要が減るなか、子どもの頃から親しんだ和船の模型づくりに取り組みます。
確かな職人技で再現されるミニチュアは次第に評判となり、江戸最古の人形の老舗「吉徳」をはじめ、各方面からの依頼が舞い込み、亡くなるまでの38年間に100点以上の作品を手がけました。

という方で、私は、三浦さんの作品を、一葉記念館の常設展示や、今年春の「大吉原展」@東京藝術大学大学美術館で拝見したことがありまして、「大吉原展」に出品されていた三浦さんと辻村寿三郎さん(人形)、服部一郎さん(小物細工)とのコラボによる「江戸風俗人形」は(なぜかこの作品のみ撮影)圧巻でした

「三浦宏の粋」展では、この「江戸風俗人形」は展示されていませんでしたが、

本展は、長屋・湯屋・呉服屋などの代表作品(縮尺1/10)を中心に約70点を展示する、過去最大級の展覧会です。

というだけに、何とも見応えのある、顔の表情筋が緩んだままの展覧会でした

まずは、三浦さんの「原点」とも言える船の模型から「千石船」

美しいし、大きさも手頃(長さ30cm×幅18cm)だし、「お持ち帰り」したかった

浴槽のことを「湯船」と呼んだりしますが、その由来は、江戸時代に銭湯の無い場所や少ない地域を風呂を設置した船で巡回する商売があったそうで、その「湯船」がこちら。

晩年の父は訪問入浴介護のサービスを受けていましたが、移動入浴車は、現代版「湯船」かもしれませんな

お次は、古典落語時代小説でおなじみ(?)の猪牙舟(ちょきぶね)。

説明板には、

猪の牙状に舳先が細長く尖った、屋根のない小さな川舟のことです。江戸市中の河川で、タクシーのように使われました。
浅草山谷にあった吉原遊郭に通う客がよく使ったため、山谷舟とも呼ばれました。

とありましたが、江戸は川や運河が網の目のように通っていた町でしたから、活躍の場は多かったんでしょうねぇ

   

船はこの辺りにとどめて、次は建物で、まずは「湯船」商売仇であるところの 銭湯(湯屋)

浴槽エリアと洗い場エリアとの間には、下がちょっとだけ開いたがあり、ものものしく唐破風で飾られています。
柘榴口(ざくろぐち)と呼ばれるもので、浴槽エリアの温度や湿度を維持するための工夫だそうな。ちょっと似た感じのある茶室「にじり口」とは関係無さそうです

湯屋の楽しみは風呂だけではなく、入浴後に湯屋の2階で過ごすひとときがあったのだそうで、そのミニチュアもありました。

江戸川区浴場組合のサイトによれば、

時期にもよりますが、銭湯の二階が別料金を払って入る娯楽スペースだったこともあるそうです。脱衣場からハシゴで二階に上がると、お茶を飲んだりお菓子を食べたり、囲碁や将棋をさしながら会話を楽しむスペースが広がっていました。
二階スペースを利用するのは男性だけに限られていたようですが、これにはある時期に「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性スタッフが三味線などで男性をもてなしたこと、武士が刀を置くスペースが必要だったことなどが関係しているようです。

だそうです。
道後温泉本館の2階・3階みたいですな(道後温泉は男女とも2階・3階でくつろげる)

と、キリが良くないのですが、久しぶりに気合いを入れて記事を書いたら、妙に疲れてしまいました

したがいまして(?)、ここから先は「#7」につづきます。

つづき:2024/12/08 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7

コメント
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