新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #8

2024-12-10 18:29:19 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #7」のつづきです。

私が「おひょう~欣喜雀躍した建物というのは、

「旧渋谷家住宅(多層民家)」です。

「兜造り」のなんとカッコイイこと

角度を変えて見てもカッコイイ

説明板によると、この建物は文政5(1822)年に建てられたものだそうで、

県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家です。山峡の雪深い地域に対応した4層構造になっています。江戸時代は、出羽三山参詣の道者宿や湯殿山登拝の先達や強力を生業としていました。
明治時代初期の廃仏毀釈などにより参拝者が激減、養蚕業に転じて家屋に通風や採光を目的とした「高(たか)ハッポウ」と呼ばれる高窓を取り付け、2階・3階・屋根裏部屋を養蚕の作業場・収納場としました。「兜造り」と呼ばれる近世のとれた美しい茅葺き屋根が特徴です。

だそうです。

10年ほど前、「日本の民家 一九五五年」という二川幸夫さんの写真展を観て、日本の古民家の美しさに心を震わせたのですが(記事)、この写真展で「旧渋谷家住宅」の写真を見た気がします。

帰省Uターン後、安くなかった図録を見たのですが、田麦俣集落の遠景が載っているだけで、あれまぁ 気のせいだったのか? でした。
ところが、この記事を書くにあたって「日本の民家 一九五五年」展をググったところ、こちらのサイトに行き当たり(展覧館のタイトルを間違えてる)、その会場内の写真の3枚目に、この「旧渋谷家住宅」の写真がある
そうだよねぇ~ 私が「見た気」になっていたわけではなかったのがうれしい
で、「旧渋谷家住宅」致道博物館移築されたのは1965年ですから、二川さんは田麦俣集落で撮影したんですな

では、中へ。

写真の右下、軒下にある格子状のものは、田植えの前に、苗を植える目印を田んぼにつけるためのローラー(?)だよね…。

それはさておき、旧渋谷家住宅に入ってすぐ、左側に縄のれんが下がっていました。
居酒屋みたいだな、と思ったら、なんと、トイレでした

どうしてこんな入口のそばにトイレを設置したんでしょ?

近所の人が「渋谷さん、いるかい?」なんてやってきたときにトイレに入っていたら気まずいだろうに…

と思ったら、この家に「玄関」はなく、来客縁側から入ったのだとか

玄関が無いというというのは一般的なのかな? と思って調べてみたら、こちらのサイトには、

一般の農家では玄関はないため、土間から座敷へあがります。その土間から一段高くなった場所は長式台と呼ばれます。

と書かれていました。
なるほど…。

さて、2階の「お蚕さまルーム」に上がってみました。

わぁ、真っ黒

3階へ続く階段も、天井(3階の床裏)も、小屋組も煤けて真っ黒です
なんでも、家の中の竃や囲炉裏で火を焚くことで、立ち昇る煙の成分茅や木材をコーティングして防菌、防虫の効果を発揮して、また、家の中に対流を作って風通しも良かったのだとか。

でも、「お蚕さま」は煙たくなかったのかな?

この屋根裏を良く見ると、は真っ黒になっていません。恐らく、定期的に葺き替えをやっているのでしょうな

2階から1階に降りると、(うまや)がありました。

一つ屋根の下農耕馬と一緒に暮らしていたというわけですな。
馬栓棒が、かなり使い込まれたと見えて、テッカテカ

最後に、外から3階と屋根を見上げて「旧渋谷家住宅」の見学は終了です。

「旧渋谷家住宅」の横に、ポールが立っていますけれど、これは恐らく避雷針でしょう。
茅葺き屋根最大の弱点火災ですから…。

   

お次は、築40年と、致道博物館の見学スポットとして最も新しい建物「重要有形民俗文化財収蔵庫」

実は、デジカメのバッテリーギリギリの状況でして、この辺りから撮影枚数を減らしていました予備を1個持って行っていたのですが、これが充電していなかったヤツで、なんとも間抜けな話です

そんな状況で撮った1枚がこちら。

「金(かね)はかり」分銅です。

「両替屋」のシンボルマークとして使われがちな分銅ですが(銀行の地図記号もこの意匠)、どうしてこんな形をしているのでしょうか?
昔、理科の実験で使った上皿天秤に付属していた分銅は、円筒形の上につまみがついたものと金属片でしたよねぇ。

ちょっと調べてみたところ、Wikipediaによると、

この両替に用いられる天秤は、承応2年(1653年)に世襲的特権を与えられた、京都の秤座で製作されたもののみ使用が許された。また分銅については、寛文元年(1661年)に世襲的特権を与えられた彫金を本職とする、後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた。そのため量目の単位としてのは江戸時代を通じて均質性が維持されている。

ですって
これで、分銅の形が同じ理由は判りましたが、「なぜあの形なのか」未解決

Wikipediaは、

この分銅の形は蚕の繭をかたどったものといわれている。

としていますが、見えないことはないけれど、ちょっと無理があるような…
なぜ繭の形なのか判りません
単に「指でつまみやすいから」だったりしませんかね?

というところで、「#9」(おそらく完結編)につづきます。

つづき:2024/12/11 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #9 [完結編]

コメント
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