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「大地主・市島邸の物語 8」 新発田城主・溝口と市島家 1

2024年01月27日 | 大地主・市島邸の物語

石川県から新発田市に移住してきた城主・溝口秀勝と市島家 1

慶長3年(1598年)石川県加賀市の大聖寺城から新発田市に城主として移住してきた49歳の溝口秀勝(慶長15年、1610年9月28日没 61歳。移住して11年後)。 市島家は弥惣右衛門と子・治兵衛(と、その家族?)も移住してきた。

 新発田に移住した溝口家について、詳しい本があります。(下)の「シリーズ藩物 新発田藩」です。

 この本は(株)現代書館が2008年8月に初版を発行。著者の鈴木康さんは、昭和25年生、新潟県旧荒川町生・新発田市職員・新発田郷土研究会理事・編著書に「城下町新発田400年のあゆみ」「城下町しばた」、その他「新発田郷土史」への起稿数編(初版発行時のデータ)。関心のある方は購入してお読みください。新発田市の歴史図書館2階で閲覧できます。 この本の一部抜粋・略記・追記して新発田藩について紹介します。

 天正15年(1587年)5月 上杉景勝(30歳)、水原城を攻め落とす。 10月25日、7ヶ年の抗争の末に新発田城が落城し、新発田氏が滅亡する(新発田の乱の終結)、城主・新発田重家(39歳)が自害。

 豊臣秀吉が天下を統一(1590年)した後の慶長3年(1598年)正月、上杉景勝(41歳)は会津へ移封され「阿賀野市旧水原町の水原城主・水原常陸介親憲も会津へ同行し、福島県の福島城主(5,500石)になる」。その後、石田三成(37歳)が検地を行う為に越後を預り、4月2日に代わって越前(福井県)北ノ庄の堀秀治(21歳)が越後国主となり、春日山城(新潟県上越市)へ来た。この時、豊臣秀吉の家臣として手柄を立てた溝口秀勝(49歳)が堀氏の与力(戦に協力する)大名として6万石を与えられ新発田に来た。それは徳川家康が江戸に幕府を開く5年前のことである。 新発田への移封に際して豊臣秀吉は溝口氏に家臣は上級者から最下級者の者まで全部引き連れて新発田に移る事、さらに検地帳面に登録した百姓は一切連れて行ってはいけないと命じた。ただ、百姓の分家や2・3男は一緒に移住した可能性がある。溝口氏の連れて来た家臣は名簿を見ると、2千石から100石前後まで96人の士分の名前がある。この士分96人のなかに市島の先祖がいると思われる。その下の取次(物資を調達などを行う、いわゆる軍属のことか?)中間・小者等の卒分の名前はない。しかし大聖寺藩主時代の天正17年(1589年)、京東山大仏殿普請手伝いに際し、3分の2軍役役令で割り当てられた人数が1,400人であるので、家臣総数は2,100人となる。移封にあたって、奉公人は一人残さず召し連れていくことを秀吉から命じられているので、2千人を超す家臣が従ったと考えてよい。いずれも、今日の栄光を生み出すのに、ともに苦労した功臣であった。そして仮に妻と子を2人とすれば、総勢8千人を超える大移動であったと考えられる。 市島家の先祖も、嫌でも大聖寺から新発田に移住しなければならなかった。

投稿日時 <input id="entry-created-time" class="flatpickr-input" type="text" value="2024-01-27 18:00:00" /> 現在日時をセット
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 溝口秀勝の移封によって、その菩提寺の大麟寺も移って来た。この寺は秀勝が大聖寺時代、宗廟として草創したもので、秀勝没後は、その法号をとって「浄見寺」と改名した。今の宝光寺の祖である。また瑞雲寺、託明寺も従ってきたという。そのほかに、御用商人・大工頭・鋳物師・塗師頭等の御用職人も移住した。大変な人数の移動であった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、溝口氏は豊臣方でなく徳川方についた。勝った方についたので、徳川幕府時代でも溝口氏は新発田藩主を継続できた。しかし、外様大名である。


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