エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

イオンは、パレーシアステスなのに、ものを自由にいうことができません。

2014-03-28 02:30:34 | フーコーのパレーシア

 

 イオンが、誰が母親かを知りたいわけの一つは、母親がアテネ人でないと、パレーシアの特権が与えられないからでしたね。今日はその続きです。ちょっとお久しぶりですが…。

 

 

 

 

 

 イオンが民主主義と君主制(専制君主制)に対してなした、この枝葉の批判的描写は、パレーシアの議論に典型として思われがちです。なぜならば、ほぼ同種の批判が、その後、ソクラテスの口から行われたことを、初期のプラトンの著作とクセノフォンの著作から、分かるからです。実際、同様な批判を、後ほどソクラテスがしています。同様に、イオンが民主主義的で君主的な暮らしに対して行った批判的描写は、紀元前5世紀末から4世紀初めにかけて、アテネでの政治的生活において、「パレーシアの権利」をもつ個人の、生まれつきの性格なのです。イオンはこのように、パレーシアステスそのものです。すなわち、イオンが、民主主義にとっても君主制にとってもとても価値があるのは、イオンが民衆に対してだろうと、君主に対してだろうと、自分たちの暮らしの欠点が実際に何なのかを、ハッキリ示す勇気があるからです。イオンはパレーシアのできる人ですし、ささやかな周辺的な政治的批判をする時にも、また、後になってから、「自分の母親が誰かを知る必要があるのは、自分には『パレーシアの権利』が必要だからなのです」、とイオンが言った時にも、パレーシアができることを示すのです。なぜならば、パレーシアステスであることがイオンの本来の性格であるのは事実ですが、母親がアテネ人でなければ、生まれながらの「パレーシアの権利」を、法的にも、習慣の上でも、行使することができないのです。パレーシアはこのように、すべてのアテネ人の与えられているものでは必ずしもありませんで、家族と生まれによって与えられる特権なのです。そして、イオンは、生まれつき、パレーシアステスの人であると思われますが、それでも、同時に、自由にものをいう権利を奪われているのです。

 

 

 

 

 

 イオンは根っからのパレーシアステスなのに、パレーシアの権利がありません。パレーシアは、特権だからです。イオンはどんなの苦しいか、想像できないほどでしょうね。

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人間らしい暮らしは、パレーシアの権利があるかどうかできまっちゃうの?

2014-03-19 09:07:47 | フーコーのパレーシア

 

 母親がアテネ人でないと、アテネでは自由にものを言う権利、パレーシアの権利がないのでしたね。

 

 

 

 

 

 ご承知のように、イオンにはどうしても母親が誰なのか知る必要がありましたが、それは、母親がアテネの土地の出身なのかどうかを決めるためでしたし、その場合に限りイオンにも「パレーシアの特権」が与えられることになるからです。それで、イオンはアテネに外国人としてやってきた人が、たとえ文字通りにも法的にも市民とみなされても、「パレーシアの特権」を享受することができない、と説明します。それでは、民主主義的な君主制の生活の、見た目では枝葉を批判的に、このようにイオンが述べたことは、何を意味するのでしょうか? それは、「パレーシアの特権」がどうなのかを最終的に確認するときに、最高潮に達するのです。それはちょうど、「私と一緒にアテネに帰ろう」というクスートゥスの提案を、イオンが承諾する時そうなのです。特に、クスートゥスのように、あいまいな言葉でその提案が言われる時にはそうなのです。

 

 

 

 

 イオンの指摘は、意外に大事なのですね。ものをハッキリといえるかどうかは、生活するうえで思いのほか大事なのですね。

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出自を知る権利とパレーシア

2014-03-10 07:51:20 | フーコーのパレーシア

 

 エリクソンに、フーコーに、フロムですので、前回はどこの翻訳だったのかな? と確かめなくてはなりません。ちょっとおバカな話です。

 イオンは自分の母親が誰かもわからずにいることに耐えられない、といいます。最近ニュースで「出自を知る権利」という訴えを慶応病院に対して法的に起こした事例あります。2,000年前の話であると同時に、今の話でもあるのですね。

 

 

 

 

 

     イオン : 分かりました。参りましょう。でも、幸運にまだ巡り会えません。私は母親を見つけなければ、私の人生は生きるに値しません。

 なぜ、イオンは母親が見つからなければ、生きることができないのでしょうか?イオンは続けて次のように言います。

     イオン : 私が母親を見つけることができて、私の母親がアテネ人であることを祈れば、その母親を通して、私は話をする権利(パレーシアの権利)を手に入れられるかもしれません。異邦人が純血の都市に来れば、一人の市民としての名のもとに、その人は、ものを自由に話せません(口が奴隷です)。すなわち、その人は話をする権利(パレーシアの権利)を持てません。

 

 

 

 

 出自を知る権利は、パレーシアとこの場合関係するのですね。母親がアテネ人でないと、自由に話をする権利(パレーシアの権利)がないみたいですね。この場合、生きるということは、自由、それも、自由に話をする、議論するというパレーシアの権利と切ってききれない関係です。コンフォーミズムの日本では、ほとんどの社会人は、「口が奴隷です」。

 

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パレーシアの実際 その2

2014-03-06 03:33:33 | フーコーのパレーシア

 

 パレーシアを実際やったサンプルをもう一つ、ご紹介して、皆様の考えを少しでも深めることにお役に立てることができればと願います。以下そのサンプルです。

 

 

 

 

 

タイトル:A中学校では、なぜ「教育」ができないのか?

 

A中学校では、なぜ「教育」ができないのか? それは、わたくしは「人間を上下2つに分けるウソ」の猛毒にやられているからだ、と考えます。今日はそのことを考えまして、皆さんへの“置き土産”としたいと存じます。

「A中学でも、英数国などの授業をしているけれど、あれは『教育』ではないのですか?」という質問が出てくるでしょう。わたくしは敢えてここでハッキリと申し上げましょう。あれは「教育」などと呼べるものではない! と。

「教育」とは、エドゥカティオ = “その人ならでは”の自分自身 = 人格を引き出すことであって、旧「教育基本法」にある通り、人格の完成を目指すものでなくてはならないからです。A中学校の教科の授業は果たして、この「人格の完成」を目指したものなのか、と、自らに問うてみてください。

「人間を上下2つに分けるウソ」とは、臨床心理学者エリック・エリクソンの用語スュドゥー・スピーシーズ pseudo-speciesの翻訳ですが、その意味は、おおよそ、「人間を上下2つに分けて、自分を『上』に位置づけ、自分の仲間ではないものを『下』に位置付ける、間違った人間観」のことを言います。この人間観がなぜウソなのか? それはこの人間観から、あらゆる偏見と差別、あらゆる殺人とジェノサイド・戦争が生じてくるからですし、人間らしい暮らしを破壊する人間観だからなのです。そして、ここから実に様々なウソも始まるからでもあります。

A中学校がなぜ、「人類を上下2つに分けるウソ」の毒にやられていると分かるのか? それは、A中学校が、 【1】精神よりも文字を、【2】中身よりも形式を、【3】分かち合うことよりわけ隔てることを、より大事にしているからです。

この「記録」用紙、①校長、②教頭、③係、④○○の押印欄のある用紙をわざわざ作ったところに、【3】上下を分け隔てる、ひとつの典型が見える、と私は考えます。それから、学校中に、下の[写真1]のように目標が何十も並べられていますが、これも、【1】「精神より文字を」、【2】「中身よりも形式を」大事にしている確たる証拠と言えるでしょう。こんなにたくさんの目標を並べることの“意味”を考えていないから、こんなことができるのです(蛇足ですが、その意味するところは、「目標は守ることよりも、タテマエが大事」「目標は、表向き守っているフリをしてればいい」ということになりましょう)。第一、教職員の皆さんが「自分の考えを生き生き表現」していますか?

 [写真1]

では、A中学校でしていることは何なのか? それは、

1)      自分の本音をハッキリ言って、話し合いを大事にするのではなく、余計なことは言ったりやったりしない。

2)      人を「人間みな兄弟である」というようなコスモポリタンとしての見方をするのではなく、「上」には媚、「下」には、蔑みでもっと臨む。

3)      生徒に対して下に立つ = 理解する(under-stand)よりも、上に立つことが目立つ(韻を踏んでみました)。

4)      真実よりも、多数派と上司の意向を気にする。

(「意見には個人差があります」 [「ナマさだ」より借用])

ということです。

これらは、教育者の行動様式ではありません。では誰の行動様式なのか? もちろん、それは、「お役人」の行動様式です。「お役所仕事」の行動様式なのです。ですから、A中学校でやっていることは、「教育公務員」として、“教科教育”と“生徒指導”をするお役人の働きなのです。

なぜ、これほどハッキリ言い切れるのか?

それは、教育に何よりも大事なのは、真実であり、真実の関係なのに、「人類を上下2つに分けるウソ」の猛毒のおかげで、A中学校では、その真実と、その真実の関係が日々ないがしろにされているからですね。

 

 

 

 

 

 以上です。 

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最深欲求 対 現実的提案

2014-03-03 07:04:12 | フーコーのパレーシア

 

 イオンは、アテネでの贅を尽くした王族としての生活には拒否的です。

 

 

 

 この劇は続いて、クスートゥスはイオンに対して、「アテネでの暮らしは心配ない」と言い、「どうだろう、しばらくはお客さんということで来てもらって、私の息子だって“事実”は伏せておきましょう」と提案します。また、「そのうち、適当な時が来たら、後継ぎとしましょう。今はクレウサには黙っていよう」とも提案します。イオンは、エレクテウスの第二の王族の後継者としてアテネに来たかったのですが、クスートゥスが提案するように、自分が町の客人のフリをするのは、イオンの本音には届きません。ですから、この場面はばかげていますし、意味がないように思われます。ところが、イオンはクスートゥスの提案に同意するのですが、「自分の母親が誰かもわからずに、生きるのはできません」と主張します。

 

 

 

 

 自分の母親は誰なのかを知るのは、自分が何のために生きるのか、を考えるうえで不可欠な要素でしょう。それをないがしろにして、現実的な提案をされても、イオンはNoというだけですね。

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