現状肯定にも、2つの側面があること、伝統の場でも、楽しい感じのある想像力と直感によって、新たに精神的連帯の場に変換することに、現状肯定が役立つこともあれば、現状肯定に開き直って、現状で「勝つ」ことにこだわると、本物の喜びに触れるどころか、偽物の喜びも得られず、疲れ切ってしまうこと。エリクソンは、とても大事なことを教えてくれました。
今日は、遊びの発達と日常生活を礼拝にすることについてです。
こういった広範囲の現象において、最も重要であると思われるのは、楽しく想像力を巡らせることと現実そのもののリアリティが、お互いに自分の子どもとして認め合うことですし、したがって、現実そのものの確かさと遊びそのものの確かさも、お互いに自分の子どもであると認め合うことです。この奥義(理解しがたい英知)そのもの(そのことを理解するためには、様々な学問分野が一致協力して努力することが求められます)さえあれば、遊びが一人の人の中で発達することと、遊びの子ども、すなわち、生涯を通じて日常生活を礼拝にし続けることを、私が別の視点から見ることが正しかったと認めて頂けるように思います。
この凝縮した記述は、もう少し詳しく申し上げる必要があるかもしれませんね。「楽しく想像力を巡らすことと現実そのもののリアリティがお互いに自分の子どもとして認め合うこと」とはどういうことなのでしょうか? それは、「楽しく想像力を働かせていると、現実そのものにリアリティが生じてくるし、逆に、現実そのものにリアリティがあると、楽しい想像力が働いてくる」ということです。また、「現実そのものの確かさと遊びそのものの確かさも、お互いに自分の子どもであると認め合うこと」はどういうことでしょうか? それは、「現実そのものに確かな手応え・実感があれば、その現実の中には、自ら遊びが生じてくるし、その遊びそのものにも確かな手応え・実感が生じてくる、逆に、現実(仕事や勉強)の中に実際遊びがあり(実際には、仕事や勉強には、遊びがないことの方が、はるかに多い)、その遊びそのものに確かな手応え・実感があれば、自ら、現実そのものにも確かな手応え・実感も生じてくる」ということでしょう。しかし、これは理解しがたい英知、奥義なので、それを理解するためには、単に心理学の知識があれば必要というわけではなく、様々な学問分野にわたる学際的な理解が必要であるともいうわけです。
遊びが世界を動かす。
不思議です。しかし、先日、NHKの「仕事ハッケン伝」で平山あやさんがパリコレを取材しているときに、女優さんのティルダ・スウィントンさんが、同じことを言っていたのに、ビィビィッとしましたね。あっ、本当にクリエイティブなことをしている人って、おんなじこと感じてるんだなってね。
“楽しい”ということの深い知恵とはまさにこれです。以前、このブログで「『本当に楽しい』という恵み 松本幸四郎さん」というタイトルでお話しした「本当に楽しい」の英知のことです。
今日はこのへんで失礼いたします。