エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#発達トラウマ障害 #途方に暮れた子ども達

2020-04-04 15:26:03 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#腑に落ちる #気持ちが判る

 #EMDR #自己治癒力を引き出す #教育的 涙のキラメキ    喋らないのは、受けないから?   遠くなっちゃった神様  ルターが出る前に、カトリックはすでに凋......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。  

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 

 p.117の,ブランクから。

 今朝は,p.119の,第2パラグラフ,7行目から。

 

自分が体験した両親と生きる

 

 子ども等は誰でも,お母さんにピッタリとくっついて一心同体に成る生物的な本能があります。なのに,子どもには選択肢が1つもないんです。その子等の両親や育ての親が,心から優しくしてくれて,大事にしてくれるのか? それとも,よそよそしくて,鈍感で,相手をしてくれず,粗末にするのか? によって,その子等は,少なくともいくつかのニーズを手に入れようとして,コッソリと打つやり方を育てることになります。 

 私どもがこのコッソリ打つやり方になりかねない振舞い形を評価し,身に着けて来たのは,2人のアメリカ人科学者,メアリー・アインズワースと、メアリー・メインの業績のおかげです。また,2人の仲間は,何千時間もかけて,お母さんと赤ちゃんの観察を,何年にもわたって,行ったんです。こういった地道な研究に基づいて,エインズワースが作り出したのが,「見慣れたお母さんが居ない場面(ストレンジ・シチュエーション)」と呼ばれる研究法です。それは、赤ちゃんが一時お母さんから離れたときに,赤ちゃんがどのように反応するのかを観る方法です。かつてボールビーが観察したように,安心してお母さんにくっついて一心同体に成った赤ちゃんは,あ母さんが見えないと強い不安に陥りますが,お母さんが戻れば,歓びますし,束の間安心を取り戻すと,落ち着いて遊びに戻ります。

 しかし,安心してくっ付けないせいで,一心同体に成り損ねた赤ちゃんは,その赤ちゃんが描く絵はもっと複雑です。お母さんが振り返ってくれず,見て見ぬふりをする子どもは,不安に処するのに2つの方法を用います。研究者たちが気が付いたのは,いつもイライラしていて,お母さんに対して不満タラタラの子もいれば,おとなしくて,引っ込み思案の子もいる,ということです。どちらの集団も,お母さんと触れ合っても,気持ちを落ち着けることができませんから,安心してお母さんにくっ付いて一心同体に成れた子ども等みたいに,満足して遊びに戻れません。

 1つのパターン,「人を避けることがくっ付く代わりをする」と呼ばれるパターンでは,赤ちゃんは,お母さんを1つも気にしていないように見えます。お母さんが居なくなっても泣きませんし,お母さんが戻ってきても,知らん顔です。しかし,だからと言って,子ども等が,影響避けないんではありません。実際に,子ども等は心拍が速くなりますから,いつも過覚醒なんです。私と仲間たちは,このパターンを,「やり取りはあるのに気持ちが1つも籠らない」と呼びました。「人を避けることがくっ付く代わりをする」と呼ばれるパターンの赤ちゃんの,お母さんは,たいてい,自分の子どもに触れるのがお嫌いですこの手のお母さんは,赤ちゃんにスリスリしたり,抱っこしたりするのも、気が進みませんし,赤ちゃんと楽しいやり取りを繰り返し作り出す表情や掛け声ができません

 もう1つのパターンでは,「心配」しながらくっ付くのと「ぶつかる気持ち」がありながらくっ付くパターンと呼びますが,赤ちゃんは,泣いたり,大声を出したり,しがみついたり、泣き叫んだりして,自分に注意をいつも引こうとします「気持ちがあるのに,やり取りがない」んです。この手の子ども等は,何か目立つことをしない限り,誰も自分を見てくれない,と感じているように見えます。こういう子がひどく騒ぐのは,お母さんがどこにいるか分からない時ですが,お母さんが戻っても,あまり元気になれません。お母さんと一緒でもあまり楽しそうには見えないのに,黙っていても,あるいは,怒りながら,お母さんを気にしているんです。他の子だったら,遊ぶだろう場面でも,黙ったままで,あるいは、怒りながら,お母さんを気にしているんですから。

 赤ちゃんがお母さんにくっ付いて一心堂内になるかどうかを研究する研究者たちが考えたことは,くっ付いて一心同体に成ろうとして「出来上がった」戦略は,3つ(安心してくっ付く,人を避けてくっ付く,不安なままでくっ付く)が働くのは,特定の親がくれる世話から一番を引き出すためでした。1つしかない世話のされ方(その世話の仕方が,気持ちが籠っていなくても,自分の気持ちを汲み取っていなくても)に出会う赤ちゃん等は,その世話をされる唯一の関係に適応していきます。これは一つも問題がない,ということではありません。このくっつくパターンは,大人になっても変わらないのが普通です。心配しながらくっ付いていたよちよち歩きさんは,心配しながら人と関わる大人になっちゃいますし,人を避けながらっ付くよちよち歩きさんは,自分の気持ちも人の気持ちも分からない大人になります(「お尻をピシャリとやられることは悪くない。お尻をピシャリとやられたからたからこそ,いまの成功を勝ち得たんだから」という場合みたいに)。学校では 避けてくっ付く子はいじめっ子になりやすいですし,心配しつつくっ付く子は,いじめられっ子になりやすいんです。しかし,発達は直線的に進むものではありませんから,人生の様々な体験のおかげで,結果が違ってくる場合も多いものです。

 しかし,実はもう1つのグルーブがありまして,そのグループこそ,適応が一層怪しいのであるとともに,私どもが治療しているたくさんの子どもたちなるグルーブですし,同時に,精神科のクリニックに来るたくさんの大人たちになるグルーブです。20年ほど前,メアリー・メインと仲間たちは,バークレーで,親との関わり方が分からない(研究協力者の約15%)子どもたちがいることに気が付きました。危機的だと分かったのは,親も自分の子どもがストレスと恐怖の元になっている,ということでした

 こんな事情にある子ども等は,頼る人が1人もいませんし,解決できないジレンマに直面します。すなわち,お母さんは生きていく上では居なくてはならないなのに,同時に,恐怖の源なんです。こんな子等は,「近寄ること(安心してくっ付く「戦略」とアンビバレントな気持ちでくっ付く「戦略」)も,意識を逸らすこと(避けながらくっ付く「戦略」)も、逃げ出すこともできません」。こういう事情を抱えた子どもは,保育園やアタッチメント研究所などでよく観察すれば,親が戻ってきたときに,そういう子は親を見ていて,その後に素早く踝を返しているのが分かりますよ。この手の子どもは,親に近づくことも親を避けることも選べませんから,四つん這いになって体をゆすっているかもしれませんし,両腕をかかげて凍り付いているかもしれませんし,親にあいさつするために立ち上がったと思ったら,倒れこんでしまうかもしれません。誰が安心できるのか,誰が仲間なのかが分かりませんから,見知らぬ人に対して強い気持ちを感じてしまいやすいし,誰も信頼できません。メインは、この愛着パターンの子どもたちを「途方暮れたアタッチメント」と呼びました。途方に暮れたアタッチメントの子は,「脅かされるばかりで,その脅かされることを自分では解決できません」。

 

 本を出すだけの学者は,これ「無秩序型」と呼んでしまいます。しかし,無秩序にやっては,子ども等が困った感じが分かりません。

 発達トラウマ障害の子どもも大人も,途方に暮れています。

 発達トラウマ障害はパンデミック。

 薬もワクチンもありません

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#子どもの遊び #超越的な礼拝

2020-04-04 15:00:00 | エリクソンの発達臨床心理
 
 





#心病む悪い習慣の人 #損得勘定 と #宗教依存症

 #非暴力 #祈りの心の習慣 #人類が生き延びる条件 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 遊びの目的 生きる目的  国立,矢川公園のコブシの花  発達トラウマ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。 

 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」

イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。

 p.344の,ブランクの後。

 今朝は,p.345,第2パラグラフ,1行目から。

 

 4 子どもの頃 :あの台本通りに,とあの形

 

 私がこれまで取り出した毎日礼拝の元は2つです。その2つは,本当の自分を創造発達させる中でキッパリと根付かせました。最初の病因を突き止める「病因論」の視点で見る時,繰り返し申し上げておきたいことは,赤ちゃんの時期と大人の人生のハビットの間に単純な因果関係があるということを私が申し上げているわけではない,ということです。それは,大人の様々な毎日礼拝には,特に,子どもが自分の足で自律したいという,目には見えないニーズに応えるという意味がありますから。ご先祖様や聖書の神様は次第に大人になることを求めている,というイメージ(これから見ますけれども)は,子どもに顔を近づけるお母さんの真似をしたり、「正義」の理想を追ったりすることだけじゃない,子どもの頃の悪い良心が外に現れることだけじゃない、ということです。むしろ,人が聖書の神様の予定(説)に従って創造発達するのは,人生のハビットを形作る主たる元(型)のそれぞれが,長い子どもの頃のそれぞれの舞台にありつつ,それぞれの子どもの頃の舞台に根差していることは確かにそうなんですが,その人生のハビットを形作る元(型)が展開すると,繰り返しシャローム英和をより気高く前進させるんですヌミノースの元(型)は,分別の毎日礼拝でも繰り返し現れるますが,それは,全ての「気高い相手」や「正義の女神」の気高さにくっ付いている燃え上がる光みたいです。あるいは,ヌミノースの元(型)は,「正義の女神」のイメージを象徴したりイメージしたりする礼拝を具現する人物に付き物の燃え上がる光のようです。ところが,ヌミノースの元型や分別の元型そのものが,たとえ,特定の人生の舞台や特定の人生のハビットを差配するとしても,毎日礼拝を「作り出す」訳じゃないんです。他の元型も2つの元型と一緒に働かなくちゃならんからです。もちろん,この後で「あの台本通りに努める」元型,「完全にやり遂げる」元型、「理想に賭ける」元型も論じます(p.348の図1参照)。

 まず,「あの台本通りに努める」元型です。この元形は,私は,「陽気で楽しい歓びを歓ぶ力」が完熟する中に根差している,と信じています。「陽気で楽しい歓びを歓ぶ力」さえあれば,子どもは手に入るものを使って,「台本通りに聖書の神様のいのちが一巡する役割を果たして,2人が一心同体に成る物語を創造し,「最高の結末」ができます。

 第2の「分別」の舞台は,親の声が子どもの心に入る所に特色がありますが,他方,この(訳注:第2の)分別の舞台が(訳注:1歳か2歳の)子どもに手渡すのは,1つの小さな実感です。その小さな実感の中で,その小さな子どもは,親がやる毎日礼拝から逃げ出して,過去に体験したことをもう一度生きて,正して,創造し直しますし,未来はこういう役割してこういう出来事があります,ということを,全ての毎日礼拝の特色である,自ら願って諦めずに繰り返し,信頼して待つことになります。しかし,この年頃の子どものテーマは,親の役回りを奪ったり,真似したりする場合がとても多いんです。それで,私はこの原理を,腑に落ちない,と名付けたいんです。腑に落ちない気持ちがありますと,遊びの中では,イライラと頑固になりますが,自分を責める人生のハビットとなってしまいます。この自分を責める人生のハビットは,分別の場には付き物だと思うかもしれませんね。でも,自分を責めることは,自分を傷つけることになるに決まっていますでしょ。自分を傷つけることは,実際に自分を傷つける前に,その空想する間もありません。自分を傷つければ,人に知られますし,人に知られれば,罰せられます。

 自分を罰するものが人からも罰せられるテーマは大きな悲劇ですが,それは,その「悲劇を見せる場」が大人の《遊び》となるからです。おもちゃの舞台で遊びに夢中になることと,公にされる演劇や聖書の神様を毎日礼拝する中で現れる三昧は,人生の第2舞台に特有の「コンプレックス」に,フロイトさんが悲劇の主人公、エディプスという名を付けたくなったテーマが同じです。

 

 

 このブログの常連の形は違うでしょうけれども,子どもの遊びと,超越的な礼拝が同じ,と言われたら,ピンとこないばかりか,このブログの筆者,つまり,私の「頭がおかしい」と思われるでしょうね。あるいは,私の「翻訳がおかしい」と思うでしょう。

 しかし,深い生き方をするか,深い臨床をするか、のいずれか,またはその両方を生きている場合は,子どもの遊びが,超越的な礼拝とピッタリと重なることを体験的に,体得的で,身に着けますし,見ればそれとすぐに分かるようになるんです。

 ですからね,エリクソンがここで述べていることは,事実に基づき,アーメンと実感があり,自分からその関わりを始めることも可能な関わりになります。

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#聖書の言葉 #単独者の恵み #ウソのない友情

2020-04-04 12:51:40 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #宇宙の子ども

 #聖書の言葉 #1人豊か #目が開かれる 聖書の言葉: πρώτος プロトス 最初の      秩序を作る力が答え     弱さの強さ  これは、パウロの書簡「......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。

 

生きているのに
死んでいるあなたへ

 

今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。

 

 

お父さんアッバ

 

という言葉が示しているのは

 

信頼,安心,大丈夫,仲間,

 

それから,ウソのない友情,ということです

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#心から自由になること  #結界 と #声

2020-04-04 12:36:33 | エリクソンの発達臨床心理
 
#学得底 #光を見失う #迷子になり放浪する

 #日々の生活が礼拝になる #子どもが確実に発達する 現世考: さだまさしさんの「大きな深い笑い」と 礼拝   自分を大事にする分だけ、人も大事にすることが出来ます......
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  

をご参照ください。

    Afterthoughts. 1985 「補足 1985」 から。Childhood and  Society の3番目の,最後の序文です。おそらく,エリクソンの出版した最後の論述になると思います。

 p.8の第3パラグラフから。

 今朝は,ブランク後の15行目から。 

 

 

 臨床で人間をよく観察する日々を記す中で,初めて偉大な体験に戻ることができたんです。それは,心優しい友達や先生のおかげで,ウィーンのフロイト派の「先達」の中で,近年発見された,子どもの頃の体験の普遍性について,体得することこそ気高い試練だ,というところに戻ります。それは,特別学校で私どもが観察する時にも,子どもの頃の体験にも普遍性があることを体得するという気高い試練がありますし,心の病で苦しむ大人の思い出と成育歴から,再び共に育つ時にも,子どもの頃の体験にも普遍性があると体得するという気高い試練がありますし,子どもを自由にすることそのものズバリを出来事にすることから,再び共に育つ時にも,子どもの頃の体験に普遍性があると体得する気高い試練がありますが,それはかつて,アンナ・フロイトが(訳注:大文字の希望にまで)育てた,子どもの頃の体験に普遍性があると体得するという偉大な試練です。

 この本の第一版の序文で,最初にウィーンで,ついで,このアメリカで,子どもの立場について,温めて,論文にもするようになったそのやり方を纏めました。その中に,それだけで1つの段落となった1つの文章がありました。それは「この本は,私の伴侶,ジョアン・エリクソンが編集しました」という文章がありました。しかし,私はこれにこう付け加えなくてはなりませんね。「私の本の全ても,ジョアンが編集しました」と。彼女もウィーンの私どもの小さな学校で教えながら,心から自由になるとはいかなることかを学んでたんです。その後,ジョアンと私は,ヒットラー政権による破壊的試練が目の前に迫っていましたから,渡米したんです(ジョアンはカナダ生まれです)。私は英語で話しを始めることはほとんどできませんでしたから,ジョアンは私の一緒に直すことになりました。このおかげで,私は,アメリカン・インディアンを含めて,様々な社会や文化圏の子ども達が陽気で楽しい歓びを歓ぶあの歓びの中にある,「目に見える表現」と幾重にも「封印された課題」を結び付けたいという,試練を希望にする私の試みに究極的には役立つ,毎日礼拝の結界感覚的で直感的に理解し,伝道する,唯一無二の毎日礼拝する生き方を磨くのに役立ちました。しかし,ジョアンが私の一緒に直すことをしてくれたおかげで,聖書の神様のいのちが一巡する結界を見守る見守りを,ジョアンと私は共にすることができました。

  

 

 エリクソンって,単なる学者,本を出版する人じゃないことに注意が必要です。エリクソンは,他の臨床家が匙を投げた患者さんをものの見事に治療することができました。その臨床の場が,聖書の神様のいのちが一巡する結界になっていることに気が付いたはずです。

 それを考えつくされた言葉使いで,著述にしているわけです。

 しかも,それだけではありません。

 その結界は,を出すことと関係しているので,以上のような翻訳になる訳です。

 

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#悲しき運命 と #聖書の神様 の # 気高い信頼感

2020-04-04 10:12:27 | エリクソンの発達臨床心理
 
#心病む悪い習慣の人 #損得勘定 と #宗教依存症

 #非暴力 #祈りの心の習慣 #人類が生き延びる条件 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 遊びの目的 生きる目的  国立,矢川公園のコブシの花  発達トラウマ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」

をご参照ください。

 Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと試練』

 今朝は,p.174の,第2パラグラフ,下から2行目から。

 備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。

 

 

 忘れてはならないのは,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちることの反対は、人に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません

 

ダメだと言われている人と一心同体に成るという選択

 お母さんと一心同体に成って,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちる心の習慣がありませんと,家族や近隣の人々の中で,素晴らしいとか,望ましいとか思われている役割に対して,小ばかにし,鼻持ちならない敵意を抱くことになる場合が多いんです。人から頼られる役割は,おしなべて,腑に落ちる心の習慣がない若者がひどく毛嫌いする中心点になりがちです。このように,自分に振り向いてくれる人が欲しくて,反抗をしすぎることは,アングロサクソンの一番の古株からラテン系やユダヤ系の新米まで,あらゆる人間に見られます。自分に振り向いてくれる人が欲しくて,反抗をしすぎることは,何でもかんでもアメリカ的なことは大嫌いという態度にもなりますし,馴染めないこと全てに対して,理屈に合わないほど,買いかぶったり,軽蔑しすぎたり,ということにもなりがちです。聖書の神様のいのちが一巡して,晴れ晴れと本当の自分に生きがいのあるいのちが2人に実るのは,(訳注:一粒の麦が落ちて死んで)1人が自分のいのちを空っぽにする時だけなんですよ。反対に,生きている実感が萎んで,1人でも傲慢になると,2人が本当の自分を生きるのが抑え込まれることになります。ケース報告で印象的なバラバラになった自分が示しているのは,悪い良心が勝って,若者のよちよち歩きの一心同体の実感がバカにされている,ということなんです。「『お前はダメだ』と言う心の声が,この頃,よく聞こえるんですよ。『お前はダメだ』と言う心の声は,やることなすこと『ダメだ』と言ってくるんです,というわけですね。その若者の話では『煙草を吸っても,女の子に“好きだよ”と言っても,身振りをしても,音楽を聴いてても,本を読もうとしても,この3番目の声は私にいつでも,『お前がうまくやろうとしたって,ダメ(ウソ)ですよ』と言うんです」,この『お前はダメだ』と言う心の声は,とっても冷酷です。とある日,内から大学へ行く途中,その若者が乗った電車が,ニュージャージーの沼地と貧民街を横切りました。その若者が強く感じたのは,大学や家の人よりも,貧民街の人と,気が合う,ということでした。いのちは貧民街みたいなところにだけある感じで,対照的に,大学は庇護された女々しい場所に思えたのでした。

 この例の中で大事なのは,圧倒的な悪い良心,「お前はダメだ」という心の声(しかし,その声は,この若者が別の道を選ぶほどにはまとまっていません)のことをよく考えてみることばかりではなくて,一心同体に成れずに病んだ自分を,バラバラな社会のせいにすることをよくよく考えてみるなんです。似たようなケースはフランス系アメリカ人のケースですが,その方は,かなり栄えた炭鉱町の出身で,男の子と一緒ですと,突然不安に襲われてパニックになったんです。割り当ての悪い良心がいつもくっ付いてきて,聖書の神様と一心同体に成り損ねていると,まるで聖書の神様との関わりとは的外れな強迫的な思いに飛びついてしまうんです。その的外れな強迫的な思いとは,男はみんな,やっぱり「フレンチはこうでなくちゃ」と思われるセックスをしてくれると期待しているもんだ,ということでした。

 このように,国や民族の祖先に馴染めないことが,「本当の自分と一心同体に成る」ことが完全にダメになるのは珍しいことです。ただし,特定の名前やニックネームで呼ばれることを,新しい旗印に居場所を探している若者の中には,いつも怒っている人は珍しいことではありません。しかし,自分のルーツについて仲良く話し合って,見直すことはよくあることです。中央ヨーロッパ系の出身のとても独創的な高校生は,スコットランドから来た移民をひそかに探して,その移民の方言や習慣を熱心に学んで,真似しました。歴史書や旅行ガイドの助けを借りて,スコットランド人との関わりの中の与えられた場で,夜に長いおしゃべりをして,スコットランドの子孫であることに腑に落ちて,自分の子どもの頃を独力でもう一度育て直しました。この女子高生は,アメリカ生まれの両親のことを,「私を ”ここアメリカ” に連れてきた張本人」と言いましたし,私のところに送られてきたときには,自分のことを「ローナ」(訳注:不倫とヌードのシーンで物議をかもした,1964年公開の映画とその主人公の名前)と呼んで,「あっちスコットランド」の子どもの頃を,事細かに話してくれました。私はその話に寄り添っていましたが,彼女曰く,「それが本当かということよりも,腑に落ちる意味がある,ということがもっと大切なんです」と。その腑に落ちる意味がある,ということは,その女子高生は以前ご近所の女性にピッタリとくっ付いて馴染んでいた,という1つに思い出に繋がりました,その近所の女性は,イングランドの島の出身で,女子高生の両親が実際にしていたこと,できたことよりも心強く,女子高生の望み通りの心から優しい温もりのある関わりをしてくれていたのでした。「真実」を見付け出す「空想の翼」みたいな力に隠れた力は,親を殺してしまいたい願いになりましたが,この親を殺してしまいたい願いは,一心同体に成り損ねた重症の危機には必ず隠れています。空想の翼の賢さがヒョイと出るのは,私がその女子高生に「スコットランドのこまごました暮らしを,どうやって整えるの?」と質問した時でしたね。その娘は,「ありがとう,先生」とスコットランド訛りの言葉で応えて,「私には,腑に落ちる過去が必要だったんですよ」と応えた時でしたね。言うまでもないことですが,腑に落ちる過去には,口蜜,身蜜,意蜜という不思議なギフトが必ず伴いますから,「空想の翼」は,心の病とは,その性質も予後も,全くの別物です。

 しかし,概して,私どもの患者さん達は,本当の自分と一心同体に成ることができない,というよりも,分からない形で,シックリしない感じを出します。本当の自分と一心同体に成り損ねますと,ダメと言われている人と一心同体になります。即ち,発達のいくつもある試練の中で,一番やっちゃダメだからね,一番人を傷つけることになるからねと教えられてきたけれども,一番実感を感じる人や役回りに,ねじ曲がって根付いた人物と一心同体に成ってしまいます。例えば,あるお母さんは,最初の息子さんを亡くして,自分を責める気持ちがありましたから,その後に授かった子ども達には,最初の息子さんに捧げたのと同じくらいの,気高い信頼感をもって,くっ付けなかったため,子ども等に対して,健やかになると「認められる」ことを受け合うよりも,どうせ病気になったり,死んでしまったりするんだから,という悲運に満ちた確信を,子ども等に呼び覚ましたのでした。

 

 最初の息子さんを亡くしたことは,とても残念なことです。そのことを否定できることはできません。しかし,それはお母さんの責任ではないのでしょ? お母さんは自分はダメだぁと責める必要はない。しかし,それ以前に、自分はダメだぁという悪い良心の声に聴きなれている場合,子どもを失ったのは,やっぱり自分がダメだからだ,という悪い良心という悪魔の声に,同意してしまいやすいのが人間です。

 それでも,「とても善かった」という聖書の神様の声に従うためには,どうすればいいのでしょうか?

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