#岡田圭さんのお話 #マインドフルネス ➡ #ミーニングフル #ありのままを生きる歓び
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「発達トラウマ障害 Enpedia」
① EnpediaをGoogle検索
② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
の二段階の検索が必要です。
(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、です】が施されています)
をご参照ください。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
第4節「毎日礼拝の復権」も、終了。
第Ⅲ部の初め、「中垣に関する様々な見通し(壁にかかったいくつかの風景)」は,日常生活のいまここにキリストの光があることを教えて下さいましたね。
今回は,p.130の,最後の、第2パラグラフから。
今朝は、p.132の,第3パラグラフから。
夢が究極的に試すのは,患者さんが幼い頃に体験した心の病と、人品が育つことをハッキリさせるのに、役立つ計画です。夢はどうして「心から自由になる場」になるのかなぁ? と問えば,創造の「初め」に向き直らなくてはなりません。(訳注:ドイツ語を話し、イタリア語やフランス語などロマンス諸語にも通じる若い女性)彼女が初めての面接に来た時,私が彼女に伝えたことは,「ソファーに横になって,私とは反対側に面してくださいね、それから,いろんな思いを自由に,その思いをありのままにイメージにしてください,どんなに痛くても、どんなに恥ずかしくても」ということでした。もう,その女性は私に夢を示している中で,「貴方の遊びを遊ぶ準備ならできてるわ」と言うかのように,私に挑戦状を叩きつけているようでした。夢が行き来する結界がハッキリと示しているのは,キリストの子どもの苦しい立場と彼女自身の苦しい立場は、仰向けに寝て下さい,と指示され,私を見ることはできないけれども,私の仕事では、話し言葉で様々な思い出を「思うままに」語る語りと呼んでいることが出来る,治療的礼拝に似ている,ということです。話し言葉で様々な思い出を「思うままに」語ってくれるおかげで,私は,自分が何で自分を恥じているのか分からずにいた様々な思いを覆っていたベールをはぐことが出来ます。とにかく,流れのままにと言う想いは,川のイメージと繋がっていますし,この女性の思い出がおしっこに集まっていることやこの女性を癒す結界の必要なこととも繋がっています。
激しい怒りと恥と言う2つの気持ちの組合せができるのは,()の中の文字Eの意味に最後には辿り着く,とっても意味深い結界のお陰です。()の中の文字Eは,私のイニシャルですから,「感情転移」のカラクリを示していました。感情転移とは,すなわち,子どもの頃の大切な人に元々くっ付いていた,コンガラガッタ気持ちを,心から自由にしてくれる人にぶつけることです。この意味では,感情転移は,さらに深い思いに覆う覆いが取り払われる様に見ることもできます。そのさらに深い思いとは,「形勢逆転」して,「私をさらし者にし」たいという、この女性の願いでした。つまり,救い主の苦難と自分自身の苦難を共に,嘲りながら私にぶつけたんです。それで,いまここで,この女性が苦しめられた,自分がさらし者にされた受け身の体験を,よく知られている逆回転に従って,歩み寄って観るのが善いとする視点で,能動的に私に逆に回してきたんです。聖書の神様のいのちの結界では、歩み寄って観るのが善いとする視点が,子どもが生き生きと生きる舞台が出来るために創造されます。こういった理解の仕方をする場合だけ,この女性患者の恥を一層辱めることになりますが,それだけではなしに,無意識の悪戯を超えて,一緒に笑うことにもなりました。無意識の悪戯は,1つの言葉に込められたあらゆる意味を,カットして捨ててしまいます。
ところが,ここで,私がこれまで従ってきたのは,この苦しい思いをしている女性が夢見る,多言語の夢のナゾナゾの中に示されている,イメージが持っている力強い志です。フランス語を話す読者の方は,少なくとも、言語連想からは,見逃していることに気付くだろうことは,seinという言葉に繋がっている,ということです。すなわち,sein 胸ですね。その次に,真実に,この苦しめられている女性がやり取りする中で思い出したのが,ショックを受けたもう1枚の絵でしたね。その絵はルーベンスの手に成るものですが,6つの胸のある女神を思い出したんです。明らかに「割礼」と正反対でしょう。というのも,この女神は,最高の豊かさという場を付け加えたからです。最高の豊かさという場では,他の場はすぐに立ち消えになります。しかし,最高の豊かさという場は,若い女性にとっては,女性の身体を「とても善い」と肯定することだったんですね。若い女性,当時は,女性の服装(【訳注:バストと背中を見せるように襟ぐりの深く取った】デコルテ)や,パリ市民の性を謳歌した習慣に、戸惑いながらも魅力を感じていたんです。それに,最初の絵は,仲間を作る赤ちゃんの頃に苦しんだ赤ちゃんのトラウマを指していましたが,第2の絵は,若い女性がのぞき見したいし,見せびらかしもしたいと願う願いを嵩じさせる、文化的な気を象徴していましたから、こうして、トラウマ全体に対する心からの優しさを求める音色と,いわば,繰り返しその求めをはねつけられたことが,心から自由になる結界で,いまここで,再現したんです。
聖書の神様のいのちの家に2つ返事で赴く「最高の」恵みに与る最初の夢の中で,私どもが見て分かるのは,赤ちゃんの頃や思春期の頃のトラウマが,心から自由になる聖書の神様のいのちの家に行き来することです。このように直ちに光を放つほど互いに相手の隣人に成ることは,もちろん,めったにないことです。互いに隣人に成り合うことを,繰り返し共に大事にし合うことは,道徳的に怪しくバラバラになった沢山のことに、長い時間を掛けて,上手に対処することから生まれます。
ここにも英知が詰まってますよね。
真面目な方ですと、道徳的に怪しいことは、それだけで捨ててしまいがちではないでしょうか?
でも、道徳的に怪しいことでも捨てないで、踏みとどまって、時間を掛けて上手に対処していく。
そういう関わりが,隣人に成ることの意味でしょう。