#真の理解 #味方 と #傍観者
#偉大な気分 #チャンス到来 #お母さんの特性? #お化けだらけのニッポン #EMDR と #脳 ジュリアンの気持ちが安定するのはね 宇宙に対す......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』
p.49 第2パラグラフから。直前も少し残しつつ。
とっても大事な最初の「2人のお勤め」は,お母さんの顔という「目印」を見ると,生後12週くらいの赤ちゃんが当てにして湧き上がる微笑みが最高の栄誉となりますし,とっても大事な最初の「2人のお勤め」そのものが,赤ちゃんだけしか伝えることができない,お母さんが認めても貰いたいと願う願い(レコグナイズという言葉のあらゆる意味において)を実現する点で,隠されたスイッチです。と申しますのも,微笑む赤ちゃん(生きる上で確かな訳になりますが)には,大人が認められ新鮮にされたと感じさせる力がありますからね。
そして,いつものように、ピアジェさんのお出ましです。『子どもの中で現実が組み立てられること』では,ピアジェさん曰く,「永続する物体で作れた子どもの一つの世界は,因果関係で支配されています。…因果関係で支配された世界には,滅びも復活もありません。ですから,この世界は,安定した外部世界ですし,内なる世界とは違って,他の人たちが使っている言葉の中から,特定の呼び名で当人が自分自身を位置づけます。」とのことです。ピアジェさんの話の中頃に,ピアジェさんは「理性」の人なのに,急に実存的な言葉「滅びも復活」という言葉が見つかりますでしょ。それを生かしてもいいですよね。なぜならば,ここでお示ししていることは,人間にはスピリットを満たす必要が根源的にある,からでしょう。あるいは、もっと平たく申し上げれば,ここでお示ししたことは,私ども人間が見て分かったことを「身に着ける」ようになったことに,意味を与える(訳注:ほんとにそうだね、アーメンだねと心底思い知る)実感にとってだけ根源的だから,というばかりではなく,見通しがあるところにある居場所で,生涯にわたって,相手とピッタリ一心同体になることだけが,(訳注:唯一の)確かな手ごたえとして,繰り返し確かめる希望に満ちた想像力にとっても根源的だからでしょう。つまりは,自分は生き生きした暮らしの中で中心に居て善いのであって,端っこで無視されるのではないのですし,自分から関わって,やりがいがあるのであって,モジモジして,どうしていいのか判らない ではないし,見守られているのであって,オドオドしたり,感覚が奪われたりする わけではありませんし,選ばれて,救われたのであって,見過ごしにされ,見捨てられたのでもありません。ここにあることすべてが,意識の明確な始まりの中で,心の奥底に幾重にも積み重ねられていることなんです。意識の明確な始まりには,どんな言語を話していても,意識が明確な始まりますと「私」と言いますし,あらゆる宗教で,救われて,すべての関係が始まる中心軸があると体感して感激する見通しを求めるのが,目覚めた意識なんです。もしも,顔と顔が向かい合う光が,ルネ・スピッツやわが奥方のジョアン・エリクソンが触れているように,宗教的なイメージを連想させるものだとすれば(たとえば,聖母マリヤが顔を傾けで,御子キリスト・イエスと一心同体になった光のように),顔と顔が向かい合う光こそが,神を信頼するはじめ,といってよいでしょう。神を信頼するとは,その神の光をまとって「目覚めた私」が善いぞとする中心軸の私【訳注:キリスト】があると信頼することなんです。この神を信頼するはじめは,カリスマのある指導者を人が求めることになる、元にもなり、しかも、人の運命を左右することにもなります。
人との繋がりを心理的に申し上げれば,私が問いを持っているのは,希望のはじめは…,根源的信頼と根源的不信が赤ちゃんの時に心の根っこでぶつかり合うところから生まれるのではないか?ということです。この最初のぶつかり合いは,この後に続くぶつかり合い全てと同様に,(訳注:その時期を過ぎたからおしまいというのではなくて)生涯にわたって、繰り返し心から自由になる(訳注:契機になる)んです。それでは,ピアジェさんの「滅び」については,どうなんでしょうか? 心響かない者は,(訳注:たとえ、母親でも)心根では信頼しそこなうことは,どうなるんでしょうかどうなるんでしょうか? 心響かない者は,(訳注:たとえ、母親でも)心根では信頼しそこなうとは,お母さんが顔を背けてしまうのではないかと心配したり,なかなか相手をしてくれず,全く心響かないようになったお母さんを思い出しただけで不安になり激しい怒りがこみあげてくることです。こうして,手ごたえのある実感がなくなってしまう恐れがあるんでしょうか? スピッツさんは,初期の著作で,「8ヶ月不安」を提唱しています。「8ヶ月不安」では,赤ちゃんは,見知らぬ人に対して、“しかめっ面“で,あるいは,“泣きわめいて“ 対します。私どもは笑って,「おバカな、赤ちゃんね」と言って,赤ちゃんの信頼を復活させます。しかしながら,未知なものに対する愚かな思い煩いは,自分と関わりのないものに対する最初の経験ですし,恐れと激しい怒りがないまぜになったものでもあります。この恐れと激しい怒りがないまぜになったものは,その後の人生でもしつこく残り,様々な関係を激しく怒るようになります。思い煩い。思い煩いこそ,大人になった時に、それゆえに,見慣れた人に見捨てられ,圧し潰されたまま捨て置かれると心配することです。すなわち,悪魔に睨まれている恐怖ですし,良き力ある者もおらず,神のご好意もなしに,宇宙でたった一人になるかもしれないとひどく怯えることです。
私ども臨床家は,ここで申し上げた「滅び」のようなものに身をもって遭遇する場合があります。「滅び」のようなものが始まるのは,大事な心の栄養が枯渇する時です。心の栄養がないのは,赤ちゃんの時に,心響く味わいがないからです。心の栄養がない患者さんは,私ども臨床家から,日々、刻々と,「復活」を欲しがります。「復活」とは,心病んだ子どもは、思い切って,人から大切にされ,人も大切にすれば,心が荒れ果てることもないし,大事な相手に殺されることもなければ,大事な相手を殺すこともない、ということです。こうして、私どもは〈私〉は弱いと身に沁みて分かりますし,だからこそ,畏敬の気に包まれた者は,全てが許されている中心軸が与えたもう御言葉を語るみたいに,イメージに満ちた言葉を話すことが身に着くんですね。この中心軸は、ドイツ語では、「視座」と呼びますね。この「視座」となる中心軸は,私どもが確実だねと思っている事実の総体を超越する包括的な視座が真実なことを教えてくれますし,私どもの志を調和のあるものとするのに役立つはずの,いろんな人が加われるやり取りを求めることにもなりますね。
こういった中心軸を育てたいものですね。
中心軸を育てている人になりたいものですね。