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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.101,第3パラグラフから。ここ数日分も,ご一緒に。
本気で遊ぶ年頃と感性通りにやる :関わりを始めることと想像力
それでは,まず,感性通りにやる原理です。思い出さなくてはいけないのは,イメージ遊びの,2,3のテーマです。それは,真似をして遊ぶことは,「本気で遊ぶ頃」が大いに進歩したことに土台があることを理解するためなんです。「本気で遊ぶ頃」のおかげで,その子どもは,手に入るもので,「対立した命の回転,役割にピッタリとあっている予定表」と,かなり自由になる,解像度の高い見通しとを創造します。思い出しますでしょ。あの(訳注:黒人の5歳の)少年がブロックで作ったイメージからは,1人の,真っすぐに立った身体が,両手を広げて,ダンスを踊っているのが分かりましたでしょ。しかし,そのイメージは,その黒人の少年をイメージした人形そのものでしたでしょ。その人形は,遊びでイメージを作ったその男の子を,性別でも,年恰好でも,人種でも,封印している姿に思えましたし,仰向けでしたが,その人形は,そのイメージの中で一番高いところを占めていました。その人形になった黒人少年は,1つの対立の(訳注:を和解に導く)半神でした。その対立は,その主題の枠組みだけしか分からないだけではなく,その個人的な意味も十分には解釈できません。しかし,この少年が短い物語が指摘しているのは,1人の田舎者,あの蛇(ずっと,地獄にいるように,強く非難されています),と,このようにして,卑しさと邪悪な危険を象徴するものです。と同時に,かなり高貴な動物たちが,その田舎者でもある,あの蛇を征服し,破壊するように,委託されていました。両腕を広げたその人々は,ワクワクした気持ちを表していますし,おそらくは,聖書の神様が創造する創造の予定通りから外れたことを克服した歓びも表しているのでしょうか? その罪は,その人たちが今も感じているものです。
しかし,ブロックでできた背の高いイメージは,ある種の勝利を表していますが,また,1つの十字架,聖書の神様を象徴するものも示していることに思い至らざるを得ません。2人3人でも,ウソのない場が,遥か彼方の天国にまで,私どもを運んでくれます。「天国などは遥か彼方すぎて」,と身震いしていう人もいます。しかも,自分の解釈があっているのかどうか自信がないなどと考えるべきではありません。その解釈が,遊んでいる子どものコマゴマしたことに従っていなくてもいいし,1つのイメージを他のたくさんのイメージと比べなくてもいいんです。また,遠慮せずに,2人3人のウソのない場が生まれたことに注意を向けるべきでしょう。そうすれば,共通するイメージの物語を見分けることになるやもしれません。
遊びで復活する舞台にピッタリなことですが,遊びのイメージの中には,対人関係の中に心が現れる視点で言えば,「自分の感性通り,腑に落ちる通りに,ことを始めても善いからね」という創造の目的として,私どもがお祈りにしてきたものがあることに気が付きます。遊ぶ年ごろは,子どもに小さな現実をプレゼントしますし,その小さな現実の中では,その子どもは,様々なおもちゃを使うことができます(その子どもの遊びを良しとして下さる者(訳注:聖書の神様とお母さん)のおかげで,その子どもは,自分の感性通り,腑に落ちる通りに,できるのです)。小さな現実で,自分の感性通りに遊ぶのは,過去に経験したことを,もう一度生きて,創造の予定表にピッタリに正して,もう一度神様の創造に参加しなおすためですし,将来の様々な役割ややり取りを,自分の自由意志から,繰り返し話し言葉にしたり出来事にすることで,先取りするためでもあります。これらのことは皆,神様の創造に参加する日常生活を礼拝にする礼拝の目印です。しかしながら,この年頃の遊びのテーマは,勝利した自己イメージを利用し,熱心にその格好をすることと,弱虫や悪者の「相手達」を全滅にすることになる場合が多い。心の中で一番違和感があるものは,子どもの頃は遊びの中で,外に出し,やっつけて,解決しようとするわけです。それは,「チャンとしてない感じ」です。このように,その遊んでいる子どもは,おもちゃのある舞台で礼拝を初める中で,自分はどこまでだったら,やってもいいの? どちらに行ったら自分はチャンとしていないことになっちゃうの? という問いを遊びの中に出すように見える場合が多いものです。
チャンとしてない感じはどれも,善悪を判断する裁判所のテーマに含まれるはずだ,と思う人もあることでしょう。しかし,1人の犯人は,定義からして,良心の教えに従わなかった訳です。ですから,少なくとも,証拠として挙げられたことを認めて,犯人を恥じ入らせる人たちによって,その犯人は,公にさらし者にされてなくてはなりません。その証拠によって,その犯人は有罪にはできますが,その犯人が,自分のせいですから,自分が悪うございました,と思うかは別の話です。本物のチャンとしてないと感じる実感は,唯一,いけなかったと「自分が」自分を強く非難することだけからしか,立ち現れない訳ですから,こんなことをしたら,たとえ,コッソリとやっても,人に知られるかもしれないし,人に知られれば,罰をもらうかもしれない,と想像することさえ,待てないのかもしれません。しかし,実際は,感性通りにやる原理が,私が創造される過程に生まれるのは,自分がチャンとしてないと感じる実感が遊びの中に避けがたく登場せざるを得ないことからです。でも,一人遊びのどこに,やり取りがあるの?と訊く人があるかもしれません。1つの事例を取り上げるのは,とても特殊な状況からです。つまり,子どもの想像力を,私どもが,想像力のヒントになるために選んだおもちゃを使って,守られた場で,テストする,計画的に発達する場から取られています。しかしながら,日常生活の場でも,子どもは遊びの世界を使って,同じことをするものです。その遊びの世界が,自然からできたものでも,人が作ったものでも,あるいは,先祖伝来の遊びでも,即興の遊びでも,その遊びの世界から,子どもの願いが判ります。
子どものころの遊びは,いろんな自分のイメージといろいろな他者のイメージで実験する中で,精神分析家が「自分の元型」と呼ぶものを,一番上手に表現しています。「自分の元型」とは,自分が見上げた自分の一部ですし,少なくとも,理想的な物語の中で理想的な役者として自分を想像する限りで,自分の理想ですし,なおかつ,物差しに合わないものには,罰と村八分があります。このように,私どもは実験して,一つの空想のシーンを想像する中で,元型となる命が一巡する日常生活の聖なる礼拝と,命が一巡しない日常生活の悪い礼拝の準備が整います。もちろん,この日常生活の聖なる礼拝と悪い礼拝は,私どもがどちらの日常生活をすることになるのかを,超越しています。そして,日常生活を礼拝にすることが日常生活を超越する時,子どもの想像力は,日常生活を礼拝にする礼拝にすることがもたらす光の国と,いつでもどこでも,自由にやり取りします。その光の国は,様々な絵本やおとぎ話,様々な神話や寓話に出てきまして,人間の様々なイメージの中の最高の人と最悪の人が,互いに逆向きに回転して,釣り合っています。
しかし,聖書の神様が創造する創造の予定説に心を向けてみましょうね。予定説の発達では,感性通りにやる原理は,元に戻るのではありません。感性通りにやる原理は,身震いするほどの驚きと圧倒的な歓びと感謝に溢れるヌミノースの原理やルールを話し言葉にする原理と一体になるんですし,私が創造される過程でまだ辿っていない様々な原理とも一体になるものです。自分の感性通りに実行すること,自分の感性を信頼して,子どもみたいに自分の感性に全てお任せにして一体になること。日常生活を礼拝にする礼拝も,日曜礼拝も,宗教的礼拝も,感性通りにやる原理がないものは1つもありません。
死に至る,チャンとしてないことのテーマは,日常生活を礼拝にする上でも,もう1つのテーマです。ただし,チャンとしてない感じは,大きな悲しみの中で,本領を発揮します。おもちゃの舞台での遊びと,ドラマや宗教儀式で演じられる遊びは,かなりテーマが共通していますから,フロイトさんひ,遊ぶ年頃に心の中に出来上がる,チャンとしてないという大きな繋がりに,悲劇の主人公,エディプスの名前がつけた程です。
感性通りにやることを妨げるのが,チャンとしてない感じです。
チャンとしてない感じは,宗教的な禁を犯すことと結びついた感触です。日本では,チャンとしてない感じ,世間に顔向けできない感じです。
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