形は中身が大事なので、日々中身を確かめなくちゃあいけません。悦びなのか? 真実なのか? それとも、「人間を上下2つに分けるウソ」なのか? まがいものなのか? あなたはどっち?
p359第2パラグラフ。
こういったことすべてを考えると、こういった啓示ができた最初と最後を学ぶことに、一層注意が向きます。なぜなら、そのハッキリした意味の簡潔さと単純さが、見出せないからですが、それが分かるのが、それに相応しい時が来る時だけです。それに続く時期においてさえ、啓示が形作られたことは、人間のやり取りが変化する点で、新鮮に即座に経験されましたし、経験されなければなりませんでした。この関連で(本物であるかという問いにもう一度戻ることになります)、イエスの物語で一番本物じゃぁなさそうな物語が、神の支配が取る形を予測するときに、一番具体的で、叙述的であると思われました。その形は、黙示的な見通しの中で決定的に提供された形なんですね。ペリンは次のように結論を言っています。「時間は、チャンスであれ、偶然であれ、その時間を満たす意味が与えられる大事な時間と考えられます」と。ペリンは付け加えて次のように言います。「時間を直線的にとらえることは不適当。それによって、≪私の時間≫というアインシュタインの概念を思い出します。」。
「戻っておいで、私の時間」と言っても、別に竹内まりやさんの懐かしい曲じゃぁ、ない。時間はただ、ダラダラと暇つぶしのための時間じゃぁ、ない。ルーティーンワークや、惰性の時間でもない。
それは、その時間を生きる意味を与えられる、時間は、自分が生かされている意味を問い直す≪私の時間≫。
ですから、「戻っておいで、≪私の時間≫」なんですね。
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