≪私≫の在り処
「個として尊重すること」を、今晩は考えます。
今さっき、クローズアップ現代(http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3703.html)で、従来「内向き」と思われていた高校生たちが、なかなか本音を語り合えない現状と、話し合いの場さえ整えれてもらえば、本音で語り合える悦びを語る番組を見ました。キャスターの国谷裕子さんが、「個として受け入れられることが大切なんですね」と結びのコメントをしていたのが、大事なことを指摘してくれていると、強く印象に残りました。
「個として尊重される」って、どういうことでしょうか?
私は、それは、ノビノビできる、イキイキできる、ってことじゃないのって、至極単純に考えてんですね。問いはむずかしそうなのに、応えが単純すぎで、ゴメンナサイ。でも、単純なことを、丁寧に考えることは、実は非常に困難なのかもしれませんよ。
「ノビノビできる」、「イキイキできる」って、どういうことでしょうか? 結構マジで考えたら、難しくありませんか?
私は、1人でいる時と、人といる時と、二通りの「ノビノビ」、二通りの「イキイキ」が、外形的(外から見た時)には、あると考えています。今晩は、人といる時の「ノビノビ」「イキイキ」を考えます。
小学生と日頃付き合っている心理臨床家(クリニカル・サイコロジスト)ですので、私の眼の前にいる小学生のことをお話して、「ノビノビ」と「イキイキ」を考えますね。でも、クライアントの小学生の個人に関わる所は、デフォルメしてあります。
ある小学生の女の子。頭も良くて、お行儀も良い。でも、事故でお母さんをすでになくされています。お母さんが死んでいると思っているのか、どこか遠くに行ってしまったと感じているのか、周りの大人たちも分からないでいました。面接してても、はじめは頭の良い、お行儀の良い子を「演じて」いました。こっちも、本音を掴むのが、心が無言で語ることに耳を傾けるのが、仕事ですからね。そりゃぁ、分かりますよ。でもそのことには一切触れずにいますでしょ。すると、だんだん、椅子の上でピョンピョン跳ねたり、逆立ちしたり、寝転んでみたり、課題は後回しにしたりするようになってきます。あぁ、ようやく≪本当の自分≫が出て来たなぁ、って感じ。ですから、こんな時にも「お行儀よくね」「ちゃんとしてね」などと言わずに、むしろ、「逆立ちが上手だね、おじさんはできないけれどなぁ』などとニコニコしています。そんなことをしていると、先日、お母さんの墓参りをする遊びを、プレイセラピーの中で、自発的にしたんですね。そして、自分の母親が亡くなった日のことを詳しく話してくれました。すごいでしょ。自分でも、それが大きな課題であることを、誰から教えられずとも、知ってんですからね。小さな女の子ですが、尊敬に値すると感じますね。そういう語りをしてくれたのも、「どんなことでも、聴きますよ」ということを、ことあるごとに無言でメッセージしてきたからではないか、と私は考えます。そのメッセージがようやく受け入れられたと感じます。
もう一人、やはり小さな女の子。この子はお母さんがいるけれども、子どもとやり取りするよりも、仕事をしてたいタイプのお母さん。そのお母さんも、そのまたお母さんから、やり取りをしてもらった経験がないので、この女の子を前にして、どうしていいのか分からないんでしょうね。その女の子も、遊びの中で、不意に頭をぶっつけて、大泣き。私は、「それじゃぁ、手当をしなくちゃね」と言って、ぶつけたところに手を当てて、「痛いの、痛いの、飛んでけ~」と大きな声で、おまじない。すると、散々泣いていたのに、いつの間にか、カラカラ笑いだす始末。おまじないが通じたようですね。
無言のメッセージでも、話し言葉のメッセージでも、それは、実は、「あなたの話を、どんなことでも聴きますよ」ということです。金森俊朗さんが、教室でやってこられたことと、全く同じです。すると、そこは、日常生活の中にあったとしても、特別な空間、特別な時間に、いつの間にか、変わるんですね。人は、この時空を体験する時だけ、「個として尊重されている」という恵みを実感できるんですよ。それは言葉の真実な意味で、ホーリー Holy 「神聖な」時空です。特定の宗教とは、全く関係ありません。むしろ、このホーリーな時空に気付いた宗教家が、それぞれのやり方で、この時空を活用している、と言う方が真実に近いでしょう。
このホーリーな時空は、「聴く」ことから生じる「対話」があって、初めて成り立つ時空です。
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