心にも身体にも響く、話し言葉が必要です。
Young Man Luther 『青年ルター』p.225の第2パラグラフから。
読み書きそろばんと、母国語を意識的に話すこと、これらは、私どもが現代において、自分を確かにさせることの柱になっていることですが、これらは、自分を確かにさせるという建物に、今まで長く生き続けていることですよね。しかし、グーテンベルグは、いわば、ルターを待っていたんですね。すなわち、マスメディアの技術が、このようにして、ルターが神学的に活躍するために活用されました。ルターが神学的に活躍したことは、民族を魅了し、ルターのシンパも魅了しました。未来はいつだって、新しい科学技術を使いこなすことに、普遍的な新たな意味をもたらす者が作り上げる、ということを軽く見てはなりませんよね。しかし、カトリック教会は、その影響力が、民族国家の台頭で揺らいでいたのに、ドイツに行っていた重大な投資にしがみついていたんですね。ドイツは、ヨーロッパの真ん中にあるがゆえに、世界のいろんな力強い考え方が拮抗していたんですね。
今まで投資してきたことに、カトリック教会はこだわった。カトリック教会が、初期のキリスト教徒とは、全くの別物になって、「持てる者」に変質していた証拠です。それに引き換え、ルターは、「持たざる者」として、自由にグーテンベルグの印刷術を駆使して、世界と人生に対する新たな見方を、暗黒時代に、生きづらさ、と息詰まりを感じていた人に提供できたんですね。それが近代が生まれる時でした。
今の日本も、暗黒時代の中世ヨーロッパ並みの、生きづらさと息詰まりの時代ですから、世界と人生に対する新たな見方、すなわち、新しいヴィジョンが必要な時です。
新しい話し言葉で語られる、新しいヴィジョンこそが、必要不可欠です!
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