エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「乱痴気騒ぎ」の効用

2014-04-07 07:10:02 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 乱痴気騒ぎは一人ではできません、必ず、集団です。集団で乱痴気騒ぎをすると、陶酔感、うっとりした一体感が生まれますから、一人ぼっちという感じを紛らわす一つの有力な方法になる訳ですね。

 

 

 

 

 

 乱痴気騒ぎが一つの仲間の中で当たり前になれば、乱痴気騒ぎをしたって、不安になることもありませんし、恥ずかしいとも思わなくなります。乱痴気騒ぎをすることが正しいことになってしまいます。立派なことにさえなってしまいます。なぜって、乱痴気騒ぎが「みんながやってる」ことだからですし、まじない師や場を仕切る人が「これはいいぞ」「こうしろ」ということだからです。ですから、「悪いことをしてる」「恥ずかしいことをしてる」とは思わないのです。同じ乱痴気騒ぎでも、乱痴気騒ぎをやらない文化の人がやったら、結果は全く違います。アル中や薬物依存症は、乱痴気騒ぎをやらない文化の人が個人でやる乱痴気騒ぎの一種です。社会的に認められた解決法をやるのとは正反対に、アル中や薬物依存症の人たちは、「自分らは悪いことをしてる」だとか、「良心が咎めるな」だとか感じます。コッソリ酒や薬をやって、「相手にされない気持ち」から逃れようとするのだけれども、酒や薬が切れたら、それだけ余計に「相手にされない気持ち」を感じることになりますから、駆り立てられるように酒や薬に頼るようになりますが、ますます酒や薬をやる回数も増えますし、その量も増えてしまいます。これとちょっと違うのは、セックスの乱痴気騒ぎに頼ることです。ある程度なら、セックスの乱痴気騒ぎに頼ることは、「相手にされない気持ち」を和らげる自然で当たり前のやり方ですし、「相手にされない」という問題に対する部分的な答えにもなります。しかしながら、「相手にされない気持ち」が別のやり方ではうまく解決できない人の中には、性的な興奮を求めることが、酒や薬に依存するのと、大して変わらない場合が多いのです。性的な興奮を求めることが、「相手にされないこと」によって生じる不安から逃れるための、死に物狂いの試みになってしまいますし、ますます「相手にされない感じ」を強める結果にもなってしまいます。それは、「愛なきセックス」は、二人の人間の中垣を、一時しのぎなら別ですが、乗り越えることは決してないからです。

 

 

 

 

 

 この「乱痴気騒ぎ」を、たとえば、「組織のためなら、ウソやゴマカシも仕方がない」、「空気を読んで行動すれば、悪いことでも厭わない」、「まじない師や場を仕切る人」を、「会社の上司やボス」などにしてみたらどうでしょう。日本のほとんどの組織を頼りにする人たちに当てはまりませんでしょうか?「組織の為から、ウソやゴマカシも仕方がない」、「上司が言えば、黒でも白だ」として行動する「組織人」は、「立派だ」と見なされませんか?

 そう考えると、これは今の日本人の多くが「相手にされない」恐怖から、たとえ一時でも解放されようとする方法ともいえるのです。日本人全体が、ある種の依存症なのでしょう。

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