「発達トラウマ障害」Enpedia と
発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典
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The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することが,できた』 p.96の,第2パラグラフ,下から6行目途中から。その前のp.94のブランクの後からもご一緒に。
心から自由になる正しいやり方で判断が生まれること
結論の中でもう一度心から自由になる根源的なやり方に戻る時,忘れてはならないのは,心から自由になるための2つの手放せない働きです。すなわち,1つはヒボクラティスの仕事でして,大人たち(患者さんも精神分析家のトレーニングを受けている人も)が子どもの頃に自由に気持ちを出せない不安や気持ちを我慢する不安をなくして,また,今の生き方や人格に不安が悪影響を及ぼすことをなくして,心から自由になることです。もう1つは,同時に,心から自由になる方法は,集団が育つ場合でも,自分が育つ場合でも,過去に発達するはずのところに人が行き詰っていることを,ひとりびとりハッキリさせる,教育的で研究的な方法です。過去の行き詰まりをハッキリさせると心から自由になるという結び付きの中で,興味深いのは,あらゆる大人の時期に奮闘努力することが,前世紀の人生の習慣だった,ということに心を留めることです。このように,1844年のカール・マルクスの手記の中に,「すべて生れ出たものは『変化する』ものであるように,人間にも,変化を始めることがあります。変化を始めることが歴史です。」(ターキー,1981)。「変化を始めること」という言葉に,マルクスはEntstehungsaktという言葉を使いました。この言葉は,「生じる」,「立ち上がる」,「変化する」という意味を1つにした言葉です。ですから,人類がだんだん大人になるというハッキリとした意味があります。かなりユートピアなんじゃない,という話の中で,フロイトさんが言うには,「1つ付け加えて置きたいことは,だんだん自由になるってことは,ひとりびとりを心から大切にしてくださる聖書の神様を礼拝する中で前進する一本道だ,ということです。ひとりびとりを心から大切にしてくださる聖書の神様の目的は,ひとりびとり全うにされた人間を1つに結び付けることです。その後で,家族同士を1つに結び付け,それから,人種同士を一つに結び付け,市民同士を一つにして,民族同士を1つにして,1つの大きな連帯,人類皆兄弟にすることです。」(1930)人類皆兄弟という唯一の未来が,全ての大人に要請する,封印された意味は,人間が運命的に赤ちゃん返りすることに,フロイトさんが体系的に没頭したことを広めることですね。それから,初めからある,太古からある様々な気持ちやイメージに体系的に没頭することです。すなわち,人類皆兄弟になる未来の人間や,「善悪を判断する前」で発達が滞っていることについての気付きを思えば,1人の大人として心響かせ,人類皆兄弟の仲間になると自覚することになるはずです。私どもの言葉で申し上げれば,フロイトさんが言ったことの意味は,本物の大人の心からの優しさは,ウソの(あるいは,形だけの)人を見下げて自分を上等とする心の壁を,必ずや打ち破る,ということになるでしょう。思い込みで人間を上下2つに分けてバラバラにしてしまえば,他者に対する憎悪を,道徳的に,しかも,一番巧妙に合理化して,大人が弱い立場のよそ者を否定することになります。このように,「人間を上下2つに分けて自分を上等とするウソ」は,私の上に立つ悪い良心によって,人は一番残忍に復讐します。残忍な復讐も平気な悪い良心があると,一番ミミッチイ仲間意識,仲間はずれ,自分と違うと見なす人たちを虐める輩になりますから,こういったことすべては,核の時代には,様々な人の生存そのものを危険にさらすもとだと見なさなくてはいけませんね。
「心から人を大切にする聖書の神様」という,必ず出来事になるあの言葉が,この流れで強調するのは,人は心から自由になるものだという見方は,全ての人を仲間と見なすように心の中で促す聖書の神様のおかげだ,という前提で始まっている,ということですし,聖書の神様がすべての人を仲間と見なすように心から促している以上,この見方は人類皆兄弟を心から大切にする,心からの優しさに役立ちますね。しかし,「心から人を大切にする聖書の神様」という,必ず出来事になるあの言葉が,もう1つ強調するのは,人類皆兄弟を促すもう1つの原理,「必ず出来事になる言葉である聖書の神様」を蔑ろにしてきた,という事実です。「必ず出来事になる言葉である聖書の神様」は,事実を事実として知的に思いのままに組み立てます。この力は今日,ますます大切になっています。それは,科学技術が示すように,人類の歴史で初めて,共に計画して目に見える世界は一つと描く人もいる時代です。しかしながら,技術が神となるイメージの中で示され,マスメディアによって踊らされがちな世界は,全くの嘘八百のヴィジョンとなり,理詰めなのにコンガラガッタ原理に従うことになります。このヴィジョンは,この数ページの中で強調した,人類皆兄弟になるヴィジョンを危険にさらすヴィジョンです。つまり,心響かせない,息を合わせない逆向きの生き方が,聖書の神様の,心響かせ合って生きなさい,心から自由になりなさい,という命令に反しているんです。ところが,ビッタリと心響かせることを体得している人間らしい心の習慣の人は,封印が解けて,あるいは,いのちを追い求めて,というべきでしょうが,光を仰ぎ見ることによって,スピリットが生きるように必ずなります。歴史家のコリンウッドが言っているように,「歴史は,心そのもののいのちです。その心とは,まさに,歴史の中で生きていますし,生きている実感があることも知っています」。こういった言葉に接するたびに心深く感じるのは,心から自由になる方法の肝心要だなぁ,ということです。アインシュタインの世紀に備えて,心から自由になる毎日礼拝のやり方が,キリストが特別に心から優しい,と2人が共に気付いて復活することになりますように,2人が共に気づいて復活することが必要になりますように,ということをお祈りにしようとしているんです。
キリストが聖書の神様と同様に心から優しいことに関して,自然科学の革命的な進歩は,もちろん,知的にも倫理的にも,様々な意味がありましたから,最初は,それまで支配的な世の中に対するイメージを危険にされすもののように思われましたし,また,それと共に,≪私が生きている実感≫を唯一の心の習慣にすることを,根源的な次元で,確かにもしましたね。例をあげましょうね。コペルニクスが,人間のど真ん中で聖書の神様の命を一巡させることは(大地もど真ん中で一巡させる)ことは,まぎれもなく,「私が生きている実感」が生まれつき自分の中心にされてあることと,お互い助け合うようにます。しかし,究極的には,このように梵我一如である様々な関係を光らせることは,心根から光に向き直すことになりますし,人間の心が創造にピッタリに心響かせることを繰り返し肯定するものです。
エリクソンは,既存のキリスト教を遥かに超えて,仏教など東洋の宗教も統合するような哲学者です。
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