「放蕩息子」の譬えの続き。
p354の8行目途中から。
それで、全てを使い果たした時、その国に大きな飢饉が起こりました。若い息子は食べるものにも事欠く始末でした。ですから、その国の市民のところに出かけて、その仲間にしてもらいました。その人はその息子を豚の飼育場に送りました。その息子は豚にやる鞘でも喜んで食べるつもりでしたが、だぁれも食べ物を恵んでくれることはありませんでした。ところが、彼は我に返って自分に言いました。「私の父親が雇っているたくさんの使用人たちは、有り余るほど食べています。でも、私はいま、お腹がペコペコで死にそうです。ここを出て、父親のところへ行こう。そして、父親に言おう、「お父さん、私は天に対しても、あなたの前でも、罰当たりなことをしでかしました。もうあなたの息子としてふさわしくありません。私を使用人の一人にしてください」と。そして、実際、その息子はそこを出て、父親のところに行きました。しかし、その息子がまだ遠くにいる時に、父親は息子が分かって、哀れに思ったので、息子に走り寄って、抱きしめ、また、キスしました。息子は父親に言いました。「お父さん、私は天に対しても、あなたの前でも、罰当たりなことをしでかしました。もうあなたの息子と呼ばれる資格がありません」と。ところがその父親は使用人たちに言いました。「速く一番上等な上着を持ってらっしゃい。それを息子に着せてやってください。指輪もつけてやって、靴も履かせてやってください。太った牛を連れてきて、肉にしましょう。みんなで一緒にそれを食べと、お祝いをしましょうよ。なぜかって、息子は死んでいたのに、生き返ったから、見失っていたのに、見つかったから」と。それでみんなはお祝いをやり出しました。
自分が生まれ変わったら、どんなに嬉しいことでしょうか? それを共に悦んでくれて、一緒に祝ってくれたなら、どんなに嬉しいことでしょうか?
この息子は罰あたりのことをしでかしました。しかし、父親との関係を思い起こし、その関係に忠実になる中でイメージしたことを、実際にやったんですね。出来事にしました。関係に忠実であることこそ、あらゆる祝福のはじめなんですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます