「手紙ノート」。ご存知でしょうか? これは金森俊朗さんが、小学校で長年実践してきたことです。朝の会で子どもが自由にスピーチするものです。これは非常に優れた教育実践だと、常々思いますので、このブログでもご紹介したいと思います。これはほとんど、非構成的エンカウンターと言えるものではないかと私は考えています。
手紙ノートは、朝一番に、子どもが、クラスの誰か、あるいは先生に向けた手紙を読みます。それに対して、それを聴いていた子どもたちが意見を述べる。
子どもが手紙を書くためには、自分の課題、自分の悲しみに向かい合わなくちゃぁ、なりませんでしょ。大人でも、それをちゃんとやってる人が少ない時代です。教員だって、忙しさにかまけて、自分と向かい合ってないなぁ、と感じる人は少なくない。金森俊朗さんはなぜ、これをやったのか? できたのか? 不思議ですよね。
それを金森さんは正直に記していますね(金森俊朗 2003 『いのちの教科書』,角川書店)。金森さんが20代の頃、最初に授かった2人の子どもさんを、流産などで亡くしてんですね。そのとき、「生死は紙一重だ」と実感されたと言います。また、相前後して金森さん自身が、交通事故で大けがをされたそうですね。その悲しみに自分自身が向かい合ったからこそ、その大事さに気付きが与えられたんだと思いますね。
子どももすぐには、悲しみに向かい合うことができない。たとえ悲しみに向かい合ったとしても、それをクラスのみんなの前で話したりはしない。語るためには、クラスのみんなに対する信頼と、金森さんに対する信頼がなくっちゃね。そのためには、子どもの「声にならない声」に対して、大人が敏感でなくちゃぁならないでしょうし、「声になった声」には、カウンセリング場面同様の、いやそれ以上の、大人の「共感」が必要でしょう。カール・ロジャースの言う「共感的理解」と「肯定的配慮」です。
こうして、一人の子どもが自分の悲しみに向かい合うでしょ。それをクラスのみんなの前で話すことができた場合、そこでは、「すがすがしい 解放された表情」を見せると言います。私も子どもの臨床をしてますでしょ。それをしてたって、この表情にはめったにお目にかかれないものなんですよね。
1人の子どもが、そんな語りをすれば、同じような悲しみを持っている多くの子どもたちが、自分を語り始めると言います。これはまさにピアカウンセリングだと思いますよね。
このようにして、授業そのものが、子どもたちが、自分の体験を分かち合う中で、生きることを学ぶ共働の場になるんですね。それがとっても素晴らしい!
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