スピリチュアルな人間が必要みたいですね。
p108 下から9行目途中から。
こういった人たちは、衆目の的であるのは必然です。そういった人たちは、一般の人に、我がことのような満足感をくれるんですね。映画スター、人気のラジオパーソナリティー、コラムニスト、政界財界の重鎮、こういった人はお手本です。こういった生き方の中心の性質は、ニュースを発信することがうまい、ということが多いです。しかし、事情はまったく絶望的だ、という訳じゃぁない。もしも、アルベルト・シュヴァイツェルがアメリカで有名になったと言う事実を考えてみたら、もしも、若者たちに、娯楽としてじゃぁなくて(言葉の広い意味で)、人間してここまでできました、ということをハッキリ示した、現存の歴史的な人物と親しむようにさせる可能性を眼に見える形にするならば、もしも、あらゆる時代の文学や芸術の傑作を考えたなら、正しい、人間らしい生き方とは何か、というヴィジョンを創り出す機会となりますでしょうし、また、偽物の生き方を鋭く見抜くヴィジョンも創り出す機会となりますでしょう。もしも、私どもが、練達を経た人生とはどういうものか、というヴィジョンをイキイキと生きられなければ、私どもの文化自体が地に落ちる可能性に直面することになりましょう。この伝統は、ある種の単なる知識を伝えるだじゃぁ、継承できません。そうじゃぁなくって、ある種の人間らしい持ち味が継承されることによって、継承されんですね。もしも、将来の世代が、こういった持ち味のある人に出会わなけりゃあ、5,000年前から続く文化も消滅することになりましょう。それは、知識だけが伝えられ、さらに発展しても、結果は同じです。
今度は、金森俊朗さんの「手紙ノート」などの教育実践とシンクロしてきましたよね。
金森さんは、「子どもたちに、『いのちは大事だよ』って口で言うだけでは、何の解決にもなりません」って言いますね(金森俊朗 2003『いのちの教科書』角川書店 p41)。知識じゃない。フロムと一緒でしょ?
金森さんが大事にしてんのは、たとえば、「泥んこサッカー」。気温の高い日に雨がざっと降ったら、着替えてからクラス全員で校庭に出る。そこではまず、雨と風に身をゆだねてから、泥水の掛け合い、水たまりにダイヴ、スライディングなどをやる。
また、田圃や森に出かけて、野菜を作ったり、冒険をしたり…。その中から自然と対話することを身体で覚えてもらうんですね。自然との対話ができると、自己との対話もできるようになるから。
さらには、末期がんの人や身ごもったお母さん等にクラスに来てもらい、話し合ってもらう。そうすると、命と向かい合わざるを得ない人の、すごみのある生き方を子どもが感じることになりますから、そこから本物からしか学べない大事なことを学べると言います。
これらもフロムとシンクロしますでしょ。
いずれも 自己との関係に忠実だから、なんですね。
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