エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#内省する心豊かな毎日 #不安でたまらず組織の中で妥協して生きる毎日 #神の顔であるキリスト #顔の不思議な力 #2人の顔に泥塗る西平直訳

2017-11-07 17:45:07 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 

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境界性人格障害の理解のためには
   エネルギーを本当の自分になるために使うには   天才 五嶋みどり  先日のヨーヨー・マさんも天才ですけれども、この五嶋みどりという人も天才でしょう......
 

 今朝はもう一本,Young man Luther   P.212,第2パラグラフからです。

 

 

 

 

 

 自分が罪深い存在であること注意深く調べる決心をした時だけ人は神様が裁く(許す)みたいに,自分自身を裁く(許す)ことができる,ってことはすべて,人が不一致に一致をもたらすためにする調整は,所詮無意識の罠に過ぎない,ってことになのかしらね? マルティンは息子として、自分が心深く苦しんできたのは、自分が宗教熱心であるのは本物だ,と父親に認めてもらえなかったからですし、しかも、あまりにも長い子どもの時代に父親に従いつつ,ずっと父親の言葉を我慢してきたのに,そのルターがいまや,子どものころに苦しんだことに,宗教上,自分が意志で選択した役割が1つある,と考えますし,自分が長い間息子だったことが、実はキリトスのおんなじ形で勝ちえた勝利だった,と理解します。ルターは最初のミサの時に、祭壇に向かって、すなわち、天にまします父とと向かって、それと同時に、怒っている地上の父とと向かった時には、マルティンは、キリストが不一致に一致をもたらす人であることに関する聖句を「見落とし」てたんでした。しかし、いまや、ルター自身の中にキリストが居ることに気付いたおかげで、ルターは,不安でたまらず組織の中で妥協して生きる道を選んだ心の習慣を超えた心の習慣を確立したんです。ルターが見つけたのは、祈りの人が,自分が確かにされる核心ですし,この重要な一歩によって,クリスチャンが、≪共に見る≫腑に落ちるくらい確かなヴィジョンを,一歩進めています。ルターは、キリストは,私どもの「ために」(私ども「ではなくて」という意味です)、身代わりで死んでくれたと考えることを止めました。ルターはまた、真似たり、卑屈に崇め奉ったり、あるいは、過去の出来事を礼拝で思い出したりする理想像がキリストだという考えも,捨てました。キリストはいまや、クリスチャンが、自分が確かにされる核心になります。すなわち、quotidianus Chtist adventus 「(ラテン語で)毎日、キリストは来られます」、キリストは今ここに、私の中におられます苦しみに甘んじてきた受け身の体験を肯定することが、毎日Passion「キリストの十字架の苦しみ」になり、Passion「キリストの十字架の苦しみ」は、(訳注:旧約聖書の)昔みたいに他者を犠牲にする代わりに,関わりを最初に自ら始め,自由意思を最大限発揮して、訳注:新約聖書』「フィリピの信徒への手紙」第2章7節にあるように自分を無とすることを是とすることになりますね。そのように肯定したおかげで,ルターも,自由意思を最大限発揮して,この世の中で自分が確かにされることも,出来たんです

  人が救い主として崇める人たちは,普通の人だったら、自分にウソをついたり、人をゴマカシたりして、避けるに違いない内省に、いつも、正面から向き合い,永遠に残る言葉で,書き記しています。こういう人たちは、世界の果てまでも、何千年後の世界までも、遥かに及ぶような、不思議な心の声によって,自分の正しさを証明します。このような人たちが,素手で苦しみを肯定することには,自分が選択し,自由意思を発揮して,自分が「出来たぁ」と言える勝利が必ずあるもんですし,遅かれ早かれ,王の中の王の誉れを得ることになっています。いばらの冠も、後になれば、組織を継いだ者の飾りだらけのティアラに,なってしまいます。まもなく,ルターは,最初の革命的単独者として,飾りだらけのティアラからも、日曜礼拝からも、人間を上下に分ける階層からも、思想警察からも救い主を救いだしましたし,救い主の誕生地,すなわち,ひとりびとりの魂に,救い主を返しました

  これは、良心の次元で言ったら、ルネッサンスの人間中心主義の,真逆なんじゃぁないのかしら? ルターは,天上天下のことは、科学に任せて自分自身の苦しみ信頼について知り得たこと、すなわち、ルターが本気になっていることに、自分は専念しました。父親たちのを曇らせ,天の父なる神様のも曇られた,怒りの雲を晴そうとしてきたルターは,いまや「キリストの生き方こそ,神のです「qui est facies patris『(ラテン語で)それ(キリスト)は、父のです』」と言ったでしょ。Passion 「十字架のキリストの苦しみ」は、人が神について知り得るすべてです。ようは,人が,心の中で折り合いがつけられずにいることは、正から向き合えば,自分自身について知り得るすべてになります。ですから、最後の審判は、いつでも、いまここで行う自己判断になります。キリストが生きて死んだ目的は,人間が将来の審判に怯えて,前にもまして貧相になるためじゃありませんでしょ。人が毎日心豊かに生きるため(心から満たされた今日 のため)でしょ。ほら,ルターは,詩編講話(Ⅳの87で),聖パウロさんが「キリストの十字架以外は何にも知りません」と言ったことに賛成するみたいに,キリストの十字架を絵描きが書いている,と言ってますでしょ。魂の点で一番ルターに近い,この絵描きは,デューラーですが,キリストの顔に,自分のをエッチングしていましたでしょ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔こそすべて,でしょ。

 座間の殺人事件の容疑者も,がすべて,でしょ。

 西平直さんの「翻訳」は,エリクソンと神のに泥を塗ってます,でしょ。

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