#不動だから自由 #いまここだから自由 #聖書の神様と一緒だから自由
#様々なシナリオを想像する想像力 に #イエス 虐待されても,虐待してきた者らを「悪い」と言えない 重い十字架 :発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達は、上......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Young Man Luther『青年のころの ルター』 P.179,最後から。5訂版。
陽気で楽しい歓びが大好きな私。
1年前に訳しなおしたんですが,コロナで自粛している時に,いままで積んどいた本を読んだら,思いがけずに,「あらあらそうだったんですね」という気付きが,向こうからやって来てくれました。なんか嬉しいですね。
May 03, 2020 若干修正
私は,「私どもを心から大切にしてくださる聖書の神様」が,陽気で楽しい歓びに満ち溢れていることなんだ,という,ささやかながら,世間の常識を超えている,実例を垣間見たことがありましたっけね。それはもう,かれこれ20年ほど前の話になりますね。アメリカ南西部のプエブロ・インディアンの小さな村でのことです。ローマ・カトリックに,村ぐるみで逆らった廉で破門されたのに,そのプエブロ・インディアンの人たちは,お祭りの準備をしてんですね。たしか,復活祭でしたかね。男たちは,日干し煉瓦でできた教会の壁を修理していました。若者は列をなして,小川(訳注:陽気で楽しい歓び という意味もある)から,水(訳注:水は,洗礼や結婚式で,2つを1つ結び合わせる約束を象徴)をバケツで運んでいましたし,女たちは,陽気で楽しい明るい色とりどりの服で着飾って,教会堂をゴシゴシきれいに洗っていました。祭壇があったところには,(しわくちゃな)風を感じて大笑いする賢慮を秘めた気高い長老が腰かけていました。この長老は,最長老にして新米の司祭でしたが,聖母マリアを皆が共に立てる(訳注:共に復活する)のを,優しい心眼で見守っていました。その聖母マリアは,色とりどりの玉がたくさんついたドレスを着て,頭にはちっちゃな王冠を載せていました。聖母マリアの全てを包み込む空っぽの胸には,ちっちゃなピンクの赤ちゃんの人形が横にされています。ろうそく代わりにこの女神は,たくさんのトウモロコシ(一粒の種が芽を出して,立って縦になる,復活する,という意味にもなる)でぐるりと回りを囲まれてました。どなたでも,心を一つにした陽気で楽しい歓びこそが,「正しいこと」を押し付ける悪い良心ことから自由にされた唯一の証だ,と思わずにいられないことでしょう。このプエブロ・インディアンの人たちは,聖書の神様を見ずして信頼する中で,1つにまとまることができたんですし,また,全ての中で最善を共に分かち合うこともできたのですが,破門されたことなど,へっちゃらで,善悪を超えた空っぽの胸から,陽気で楽しい歓びを生きる聖書の神様だけが下さる唯一無二の創造エネルギーを得ていたのです。
気付きが向こうからやってくるとき
それはまるで,聖書の神様が微笑みを讃えながら,ウィンクしている感じを強く感じます。
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