とうとう、この論文の最終回。ここまでお付き合いいただきました皆様、ありがとうございます。
p362の第2パラグラフ。
この圧倒的な科学技術の文脈の中で、今私が結論として申し上げなくてはならないことは、どのような宗派的な理由があっても、私どもの宗教が伝えて来た伝統的な根っこをなす言い伝えについて学べることと、人の意識と良心の進歩から学べることを、度外視することなど、ほとんどできない、ということですね。ほらぁ、ガリラヤの言い伝えは、我々のユダヤ・キリスト教の遺産にとって、最も重要な出来事として、勘定に入れなくちゃぁね。ガリラヤの言い伝えは、人間理解と自覚における一歩です。その人間理解と自覚は、ユダヤ・キリスト教が辿ってきた道に、十分に現れているわけでもなければ、そこに限られているわけでも、決してないんですね。
フロイトが、無意識を見つけ出し、良心が、心の病の源であるばかりではなくて、人類を破滅させることに繋がる場合もある、ということに気づいたことが、最大の貢献ではないですか? 少なくとも、エリクソンはそのように見ています。でも、アインシュタインやユングが教えてくれているように、その無意識は、同時に、あらゆる慈愛、あらゆる叡智の源にもなりうるものです。
ガリラヤの言い伝えは、「≪私≫の感性」、「ありのままの自分」を活かして、私どもが生きていくためには、なくてはならないことだと、私は確信しています。
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