エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#気高さを生きる #最高の光

2019-07-23 07:01:31 | エリクソンの発達臨床心理
 
#想像力の賜物
 #聖書の言葉 :#ソリチュード、 #一人の豊かさ #ありのままの自分が確かにされる場所      発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gm......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。

 不思議な導きの中にある,まとめ学習の都合により,Insight and Responsibility 『キリストと共に見る心眼=善い良心があると,子どもに応答できる』の、p.116,最後から。今朝は,p.119の,第2パラグラフ,7行目から。

 

 

大文字の希望が当てになると信頼できる唯一の条件は,母子が一心同体体験をすることだけです。その母子一心同体体験は,聖書の神様の全体像を体現した赤ちゃんが「記憶に残る前」の時代,すなわち,言葉を話せない時,話し言葉による記憶のない時分の,分裂していた母子2人の実験が一心同体になることによって,はじめて実現します。心から自由にされて善かったと語って自分を育ててくれるスピリットは,自分のたった1人の「お母さん」が心から安心できる人だなぁと顔と顔をシッカリと見合わせて,腹の底から仲良くなって,一心同体になることが,育ちの中で一番大事だとみなします。スピリットが語る言葉を生きる者は,赤ちゃんがお母さんと腹の底から仲良くなり一心同体になることが,育ちの中で一番大事だと言ったことによって,あの「対体験をする者が育つ場」がプレゼントしてくれる,「ギフトとしての自由な私」(「生きるはキリスト」)を体得底で,完全に知ることができるんだ,と言っているんです。他方で,心から自由になって善かったと思える者たちは,最初に心から大事にしてくれる1人のお母さんの重要性について,自由に訴えていますが,最初に心から大事にしてくれる,その1人のお母さんとは,手塩にかけて大事にしてくれる人は,心響かせピッタリ身体を合わせてくれる人かどうか実験して,一心同体体験は,なるほどホントだなぁ(アーメン),と腑に落ちる体験です。その一心同体体験実験をアーメンにしてくれるお母さんは,赤ちゃんの,お腹がすいたり傷んだりした身体と辛く悲しい気持ちを,赤ちゃんが期待している通りに,いつも繰り返し振り返ってくれますし,いつも自分を赤ちゃんより小さくして,赤ちゃんのために働きますから,赤ちゃんの心の中に,自分は値打ちものだという信頼を吹き込むことができます。アーメンお母さんは赤ちゃんと眼と眼を見合わせて,赤ちゃんから心から仲良くされて一心同体にしてもらえるのは,アーメンお母さんが眼と眼を見合わせて赤ちゃんと仲良しになり,一心同体だと思えるのとちょうど同じです。赤ちゃんとお母さんは,2人とも心から優しいということは,最初に知ることになっていることですし,最初に信頼を創造するものですから,大文字の希望の足です。

 大文字の希望は,人生の実験を根底から支える良さとして一度出来上がると,「様々な上手くいく見通し」が見通し通りでも,そうでなくても,いつでも,生きているってすばらしい,という希望があります。と言いますのも,人が心身ともに大人になることの中にこそ,様々な具体的な希望って,出来事や状況を望む希望が実現したときには,もっと先にある様々な希望の足が,先回りして静かに待っていますからね。赤ちゃんが自分から関わって歓ぶ歓びが次第に増えれば,信頼を作り出すことが増して,上手くいく見通しがそれだけ豊かにされますから,もっと先にある様々な希望のおかげで,赤ちゃんは,新たな期待に胸弾ませることも増えますね。それと同時に,その赤ちゃんは,「No」と言い返す力も伸ばします。聖書の神様の最高の光に似てくれば,叶わなかった様々なよき見通しから,素晴らしい見通しが生まれます。それに,心から真似びたい相手を夢見るようになりまりますし,いまここにあるものは,とても良い,と約束してくださる聖書の神様の試練を,生きている実感が引き出されて,̪̪信望愛に至るまで,続けます。聖書の神様がいつも育ててくれる良い見通しは,何があっても大丈夫 なだけではなくて,聖書の神様の心から優しい命が一巡する場を,どこでも何度でも,作り出すことができる,と見通すことになっています。それは,聖書の神様の心からの優しさを信頼することは,様々な山をも動かす,と言われている通りなんです。聖書の神様の心から優しい命が一巡する道から外れてしまった場合でも,大文字の希望が,息を合わせる大人に育てて下さる,唯一無二の救い主キリストのスピリットに,体得底で近づけるようにしてくれます。息を合わせる大人に育ててくださる,唯一無二の救い主キリストのスピリットが働く場では,内的促しにピッタリと合う心の習慣が備わり,聖書の神様の命が一巡しますから,互いに大切にし合うことに決まっています。ただし,聖書の神様の命と正反対に粗末にし合うことが,あの全うな人や,聖書の神様の心から優しい命が一巡する場を,どこでも何度でも,作り出すことができる,と見通す,あの見通しに勝らない場合です。人間に生まれたあかちゃんにとって,自分のお母さんこそが,「現在形の創造主」です。お母さんは,聖書の神様の法則では,赤ちゃんにとって,最初に聖書の神様のあの約束を必ず守ってくれるキリストになる「予定」です。お母さんがキリストみたいに必ず約束を守る人になれば,約束を守ってもらえるという信頼が,他の人からも引き出せるし,自分が生きている実感の輪がますます広がります。ですからね,聖書の神様が,私が生きている実感を「とっても善い」として下さることは,母子が共に育つ人になる聖書の神様の法則では,スピリットの光 の中で始まります。母子が共に育つスピリットの光は,聖母マリアの様々な絵を見れば,母子2人が,正しいことを押し付け合うこともありませんし,思い煩いあうこともない,2人が共に居る道であることもわかります。しかも,聖書の神様の命が一巡する場では,母子2人を共に育てて下さるスピリットの光は,何度もバラバラにされる落とし穴がパックリと口を開いていても,ピカリと輝き閃き続けます,実る中でバラバラにされそうになっても,倒れてバラバラにされそうになっても。

 一番大事な祈り,聖書の神様の一番大事な約束が,思いがけず見つかりましたね。「大文字の希望は,ホットけいな願いは,必ず実現するに決まってます,ということを信頼して,待つことができる,ということです,たとえ,はじめは,なんで自分だけこんな目に合わなければならないんだろう,ということや,訳の分からないことがあっても,ね」。大文字の希望は,聖書の神様を信頼する自分が創造される不動の岩盤ですし,善きサマリア人みたいな,ホットけない関わりのお手本に必ずなる,心豊かに聖書の神様を信頼する歩みが,我が身を任せる風です。

 大文字の希望が豊かだという,類い稀な在り方は,様々なイメージが育つ場に翻訳するならば,自然の中では楽園ですし,人との関係の中ではユートピアですし,あの世では天国になるでしょう。2つに分けることができない,全うな人の中では,いまここで,大文字の希望が豊かだと,すぐにはシックリとしない「最高」になるでしょうね。と言いますのも,不動の岩盤である大文字の希望は,育ちが速い自分の喜びと人の喜びが,必ずぶつかり合うことになるに決まっていて,それは,とても祈れない,と思うほどの苦しみだからです。赤ちゃんの五感と筋肉が,自分から関わるチャンスを掴み取ることが増してくるにつれて,自分の心の車輪をまわすのか,それとも,相手が心の車輪をまわすのをよしとするのか,迷うようになります。「心から歓んで関わる」ことは,わがまま勝手ということではなくて,止むに止まれぬ気持ちを聖書の神様の命が一巡するように,判断し決心する力が益々,体得底で身につくことなんですからね。人間が生きる予定にした聖書の神様の道は,

①自分にできることを心から歓んでやるようになることですし,

②やるべきでないことは心から歓んでやるに値しない,と繰り返し誓うようになることですし,

また,

③やるべきことは心から歓んでやれば,必ず実現する,と信頼するようになることです。

 聖書の神様の道では,「心から自由に歓んで,微妙の法門を生きる」ことは,アーメンとはなかなか言えない,逃げ水みたいな問い,の源になるに決まっています。「心から自由に歓んで,微妙の法門を生きる」ことは,聖書の言葉からも,聖書の神様が語る声からも,聖書の神様の命と力を人間が頂く試練の連続になるに決まっています。聖書の神様が居られる場は,大文字の希望と「心から歓んで,微妙の法門を生きる」こととがなければ,誰も生きられないんですから。自分が拠って立つ土台とぶつかる心がある,対等な関係の中にこそ英知があると分かった人は,「心から自由に歓んで,微妙の法門を生きる」ことや大文字の希望を探しながら,心の中の守護神であるキリストを心から探し求めることって,アーメン,ほんとに真実なことだなぁ,って,実感が益々湧いてきます。やるべきことを心から歓んでやる,あの心の習慣でも,神々や指導者たちのために,人間が捧げてしまえば,自分のために思い出し,祈りとしてきたことを,神々や指導者たちから,暴力的に利用されることになります。

 心から陽気で楽しい歓びが初めて手に入るのは,すべての人が(訳注:赤ちゃんの時期に)立つ時みたいに,私が目の前の,一見バラバラな様々な実験を一まとめにする時です。目覚めていることと意識していること,それから,手塩に掛けること,話し言葉にすること,聖書の神様の心からの優しさで,思いがけず,一心同体になり胸震わせて感動する場は,一見バラバラに見えますが,一つになるとき,心からの陽気で楽しい歓びが始まるんですからね。切っても切れない絆を鍛錬することは,身体の内側の体感が自分をコントロールできるようになるのか,それとも外側の大人からコントロールされるままになるのか,を一つに結び付けることができない躓きの繰り返しに焦点を当てることになっています。躓きの繰り返しに焦点を当てることは,すべての筋体系の中で,筋肉が緊張とリラックスの2つの働きをすることの中で,繰り返し再登場します。つまり,2つに分けることができない全うな2人が,顔と顔を向けあって,互いに大切にしあうことと,廻向した本物の大人が,仲間として身をもって生き方を示すことが,切っても切れない絆の訓練になるんです。(躾がなってないことからくる,あるいは,教えすぎからくる)負け犬になる心の習慣は,心の底からくる恥になりますし,自分がしたことは,本当に心から歓んでいるのか,あるいは,自分が心から歓ぶことをしたのか,が分からず,迷子になります。

 しかしながら,心から歓んで生きることが,私が育つ赤ちゃんの時期に,安心できた赤ちゃんの魂に,聖書の神様から打ち込まれていれば,大文字の希望がそうであるように,みなさんひとりびとりの私は永遠にいつも元気ですから,人間は弱い存在に見えますが,その弱さを乗り越えます。と言いますのも,心から自由になった本物の大人(訳注:大人のキリスト者,あるいは,大人の仏教徒,ないしは,大人のイスラム教徒)は,一足一足,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡する相手は誰なのか,自分はどうすれば,その相手と聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡するようになるのか,という体得底の英知を身に着けるようになるからです。聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡せず,負け犬になることが多い場合でも,それにもかかわらず,人は,一心同体になることには,なかなか受け入れがたい法則があることを,体得底で身に付けるようになります。そのなかなか受け入れがたい法則とは,外側で行われる様々な出来事が,創造の初めから,封印している「意識の奥底の空っぽの時空に,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡する場」がある,ってことを,人は腹の底で知っている,ということです。と言いますのも,一心同体になることは,晴れ晴れと生きる中に元来備わっている気高さだからです。

 

 

 

 聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の,心から優しい命が一巡する場を,いつでも何度でも作り出せる,という見通しを持つことが,大文字の希望です。

 聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)と一心同体になり,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の心からの優しさに感動する神秘。

 こちらも,暗号を解けば,以上のようです。

 意識の奥底にある空っぽの時空に,聖書の神様(あるいは,阿弥陀様,ないしは,アッラーの神様)の命が一巡する場」があります。その時空から,最高の光が煌めきます。

 その最高の光の,なんと嬉しく,歓ばしいことか。


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