このブログの読者の皆様、「裸の王様」の最後って、どういう結末だったか、ご存知ですか? 子どもが「裸だ!」と言って、終わりではないんですね。裸を指摘されたら、王様は顔を真っ赤にして恥じ入ったのでしょうか?
岩波文庫の『アンデルセン童話(一)』大畑末吉さんの翻訳から、その最後の件を引用しておきましょう。
「なんにも着ていらっしゃらない!」とうとうしまいに、ひとり残らずこう叫びました。これには皇帝もお困りになりました。なぜなら、みんなが言うことがほんとうのにように思われたからです。けれども、「いまさら行列をやめる訳にもいかんわい。」とお考えになりました。そこで、なおさらもったいぶってお歩きになりました。そして、侍従たちは、ありもしない裳裾(もすそ)をささげて進みましたとさ。
ある意味、見事な描写ですね。
きっと、「裸の王様」、あの無知な「専門家」も、「みんなの言う方が本当のように思われた」はずです。でも、引っ込みがつかない?!
無知な「専門家」は、
(厚顔)無恥な「専門家」でもあるようです。
韻を踏んでみました。
「裸の王様」の最後の件について、宮田光雄先生は『メルヘンの知恵』で次の様にコメントしています。
威厳を装う皇帝(「専門家」)の幻想と《はだか》の現実のあいだの乖離は、あまりにも大きかったのです。だから、最後まで恥をさらしつづける羽目になったのではないでしょうか。
まあ、今度、あの無知で無恥な「専門家」が恥さらしに来る姿を、よくよく見てやりたい、と思います。
でも、これで終わりではありません。宮田光雄先生は、「裸の王様」を無知で無恥な「専門家」に投影することを諌めておられるのですから。
宮田光雄先生は、「裸の王様」とは、私自身であることを指摘して、次の様に教えて下さいます。西洋政治思想史のご専門ですが、まるで、サイコセラピストのようですよ。
《面の皮を厚くする》ことは、私たちを攻撃から守ってくれると同時に、その反面では、人間らしい感受性や体験の仕方を私たちから失わせる危険もともなっているでしょう。
そして、宮田光雄先生は、最後に私どもに次の様に語りかけて下さいます。
私たちは、子どものもつ根源的な単純さと率直さとに帰らねばならないのです。…そのときはじめて、…自分自身に即して生きる充足感、自分が本当に自由であるという解放感、自分がこうして生きるのを許されていることの静かな喜びなどを、こころに深くかみしめながら生きていけるのではないでしょうか。
静かな悦びを味わいつつ、無知と無恥を見てやりましょうや。
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