裸の王様には、本当という一撃を!≪いまここ≫を生きる現代の礼拝 治療的儀式化=新しい儀式化→新たな物の見方・価値の創造2013-07-30 03:06:57 |&n...>続......
エリクソンの言葉を学ぶシリーズ。エリクソンの言葉がなぜ「聖書の言葉」になるかって? それはみなさんで考えてもらいたいと思います。
今日は、津久井やまゆり園の事件の「犯人」の心理を、エリクソンの言葉から、もう少し学んでみようと思います。今宵は、Erikson, E. H. (1977). Toys and Reasons: Stages in the ritualization of experience.New York: W. W. Norton. から。P.94-95. ここも、一歳半~三歳くらいの時期のことをエリクソンが述べている件です。
親達や目上の者たちは、子ども自身が(あるいは、自分達が)見張っていなければ、そうなるかもしれない存在と、その子どもとを比べます。このようにして、子どもは、2つの対立するイメージを自分に対して抱くようになります。そして、こここそが、「ダメな自分」が生育歴の中に生まれる源です。その「ダメな自分」は、「人間を上下2つに分けるウソ」をイメージの面で支える際になくてはならないものです。というのも、「ダメな自分」は、自分がそのように思われてもいけませんし、そのように見えてもいけない代物だからです。しかも、「ダメな自分」は、もしかしたら、そうなるかもしれないと感じているものでもあるからです。…自分に対する疑いと心深く隠れている恥が、「見ないようにしている」「ダメな自分」と結びつく時、その人間の中に、抑圧されたあの激しい怒りを生み出すのです。この抑圧されたあの激しい怒りは、「正しいことを押し付ける大人」に反抗したり、人に対して(訳注:自分勝手な)正義を振りかざして、非難したり、ということになります。私はこのことを暗く描きましたが、それは、「ダメな自分」が生育歴の中に生まれる源こそが、「バラバラな自分」の源であるばかりではなくて、「いがみ合う人類(人類をばらばらにする)」の源でもあるからです。
エリクソンが教えてくれているように、「ダメな自分」がありますと、自分はバラバラになります。でも、聖書の神様は、この世をおつくりになった時に、全てを「良し」としてくださったのに、「ダメな自分」と、神様が「良し」としてくださっていることと、矛盾しますでしょ。
その「ダメな自分」は、ほんとうは「良い」ものなのに、「ダメ」と烙印を押され続けるものだから、必ず「激しい怒り」を伴うと同時に、その「激しい怒り」は抑圧される訳です。
今回の津久井やまゆり園の事件でも、「ダメな自分」が、「重度の知的障害者」に投影されて、首を切って、他人の頭と胴体をバラバラにしたもの、と考えると、了解可能なものになる、と私は考えますね。
ですから、私どもが学ぶべき教訓は、
1)「ダメな自分」を「良し」とすることと、
2)「人間を上下2つに分けるウソ」を自覚的に乗り越えて、「人間皆兄弟」『みんな違ってみんな良い」と改宗すること
だと、お分かりかと思います。
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