イエスは、自分を見失っている者に対して、自分を取り戻す力を与えてくれるばかりではなく、自分を、より「その人ならでは」に磨きをかける際にも、全身全霊で、力づけてくれるんですね。
p358の下から7行目から。
これに続くのは、イエスの十字架ですし、イエスが復活したという話です。このようにしてイエスはキリスト 油塗られて聖化された救い主となりましたし、イエスの人生行路は、それで、神話化されました。ヘレニズム世界のために、キリスト教の母教会の中で書かれた記録は、もう1つ、別の権威を発展させました。その権威は勝利が現れる象徴によって一番良く示すことができます。勝利の象徴である十字架は、至極単純なのですが、人間が直立して両腕を大きく広げた形であると同時に、、救い主であることを証明するためたげに、最も脆い形で、予言通りに死んだ、人の子の形でもあるように見えます。あるいは、母なる聖母を考えるべきでしょうか。聖母は、輝ける儀式の中心を、徐々に占めるようになります。しかし、それに続く礼拝の歴史は、豊かに、社会的、文化的、芸術的な形を伴ってはいても、結局は、それ自体が強迫的な儀式主義をデッチアゲざるを得ませんでした。その強迫的な儀式主義には、「人間を上下2つに分けるウソ」が含まれていますが、そのウソのために、救いに与った人たちまでもが、キリスト教信仰さえも、十字軍、すなわち、人を殺すほどの憎しみを合理化することに利用するんですね。
キリストが、至極残酷な十字架の死を死んで、救い主となって、キリスト教が生まれたのに、はじめは輝かしい再生の悦びを示していた礼拝が、その命を失って、形ばかりになった時には、「死から再生した悦び」を示していたはずの礼拝が、「人間を上下2つに分けるウソ」が忍び込んだ、形骸となります。すると、その形骸は、夥しい骸骨を生み出す、ケダモノのような人殺しと、猛烈な憎しみを、世の中にばらまくんです。
ですから、ある形を行う時にはいつでも何度でも、私どもは「なんのためにうまれ、何をして生きるのか?」を問い続けておかなくちゃぁ、いけないってわけですね。
アーメン(ホントだね or ホントにね)。
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