「人間らしいヴィジョン」をはっきり自覚するためには、弛まぬ努力と、内省と観察が是非とも必要ですね。
p113第2パラグラフ。
科学史は、理性に対する信頼と真理というヴィジョンに対する信頼に満ち満ちています。コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンはみんな、理性に対するゆるぎない信頼を吹き込まれていたんですね。合理的なヴィジョンを概念化するところから、理論を創り出す所までのあらゆる段階で、「信頼」がなくてはなりません。理性というヴィジョンを信頼するのは、合理的に妥当な目的を追求するために必要だからですし、仮説を信頼するのは、真実らしく、もっともらしい主張をするために必要だからですし、最後的な理論を信頼するのは、少なくともその理論に妥当性があることに、一般的な共通理解が得られるまで必要だからです。この信頼は自分の経験に根差したものでして、自分の思考力、観察力、判断力に対する信頼に根差しているんですね。合理的でない信念が真実だと誤解されるのは、権力や多数派がそのように、デッチアゲル場合だけですし、合理的な信頼はと言えば、多数派に同調せずに、自分自身が建設的に、観察し考えたことに基づいて得た、独立した確信に根ざすものなんですね。
NHkや新聞の言うことを鵜呑みにしたり、忙しさにかまけて、権力がすることをチャックせずにしまうと、その時には民主主義は死んでしまいます。権力の思う壺。わが安倍晋三首相もニヤリとすることでしょう。
日本人は、大勢順応主義。多数派に同調するのが、処世術。忙しいと思考停止でいてくれることが、権力の思う壺なんですね。ひとりびとりの市民が自分の頭で考えて、独立的に行動しないから、わが安倍晋三政権は、「人間らしい暮らし」を、あからさまに踏み躙っているんですね。日本を人間らしい社会にするためには、自分の眼で観察し、自分の頭で考え、自分の信頼するヴィジョンに従って判断し、行動できる大人じゃぁないとね。
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