馴れ合い、すなわち、自分が得するために、“ 横並び ” で、“ 群れて ”、生きる生き方の反対は、「真」でしたね。それは心が関係に対して誠実なのか、そこにウソやゴマカシがないか、絶えず自省する生き方です。内省的な生き方ですよね。しかし、逆に、活動は、そういった動機が不問なのです。ですから、圧倒的多数の日本人がそうであるように、自分が得するために、家庭や学校や町内会や会社などの、組織やシステムの群れ(村)に加わる生き方と「真」は、文字通り、真逆な生き方になりますね。馴れ合いで群れて生きてる人は、「何のために、働いている(生きてる)のか?」、「何が自分の人生にとって大事なのか?」を忘れて(忘れたフリして)生きています。「自分が得すること」以外は考える習慣がないからです。「真」の人は、「何のために、働いている(生きてる)のか?」、「何が自分の人生にとって大事なのか?」を考えずに生きるなんて、考えられません。
今日は、p20,L13 段落の途中から。
反対に、静かに座って、物事をよく考える人で、自分自身であることと、世界と一体になること以外には、何の目的も、何ら目標もない人は、「受動的」だとみなされがちですね。なぜって、何にも「して」ないように見えるから。ところが、実際は、集中してお祈りをするような、この生き方こそが、もっとも活動的な生き方です。そこには、魂の働きがありますしね。この魂の働きができるのは、心が自由で独立していなくてはなりません。活動の一つの意味は、現代においては、眼に見える目的を達成するために苦労することを言います。活動の別の意味は、人間が心の力を使うことを言います。この場合、眼に見える変化があるかどうかは問いません。心の力を使う意味での活動は、スピノザが一番ハッキリと言葉にしました。スピノザは能動的な気持ちと受動的な気持ち、「イキイキ、ピチピチ、いろんなことをする」のと、「しかたがないので、イヤイヤながらいろんなことをやらされてる」違いを明確にしました。能動的な気持ちを練習するときは、人は自由ですし、自分の気持ちをコントロールすることができます。逆に、「しかたがないので、イヤイヤやらされてる」気持ちを練習するときは、人はイヤイヤやらされているのであって、何が動機なのかは自分自身で気が付きません。このように、スピノザは次のような明確な意見に考え至ります。すなわち、ヴァーチュー、すなわち、体からにじみ出る人格と力は同じものだ、ということです。人を羨む気持ち、人を妬む気持ち、人に勝とうとする野心のある気持ち、人より金持ちになろうという気持ちは、実はみーんな、「しかたがないので、イヤイヤやらされてる」のです。反対に「真」は、「イキイキ、ピチピチ、いろんなことをする」ことですから、人間を幸せにする力を発揮することですし、自由であって初めて発揮されるものでして、「ねばならない」からするものでは決してありません。
イキイキとイヤイヤは一字違いなのに、その生き方、その人格が放つ香り、雰囲気には雲泥の差があることは、火を見るよりも明らかです。一方は、芳香、他方は悪臭、一方は、弱者の幸せを願う生き方、他方は自分の富を願う生き方です。
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