<私>が新鮮にされるとき:<私>と、遊び相手の<私>との出会い
前回は「アイデンティティの混乱」のお話でした。アイデンティティを形成するって、やりがいがありますね。支払い猶予(モラトリアム)でいろいろ実験していると、悪いレッテルを張られるかも...
空っぽな時代という時代認識から出発するとして、私どもになのができるのか?どのように日常を過ごしていったらいいのか?
その答えは、皆さんが自分の頭で考えることが何よりも大事です。したがって、その答えは、たとえ、すぐに手に入るものではないにしても、様々な可能性に開かれているでしょう。
私なりにその答えを申し上げれば、「笑い」です。その点、井上ひさしさんは、とても参考になります。人間の真実に根差した笑いを作り出す、ということです。そう申し上げると難しく響きます。
私の職務が心理臨床ですから、眼の前にいる子どもとの関わりを、なるべくウソのない真実なやり取りのある関わりを続けることを通して、その子どもとの関わりと、その子どもの暮らしの中に≪笑い≫を作り出していくことです。
それは、旧約聖書の初めのほうで、高齢になったアブラハムとサラの夫婦に、子どもがなくて、「もう子どもは無理だ」と諦めていたのに、神様が「来年の今頃…男の子が生まれますよ」と言って、その通りに男の子が誕生する話が出てまいりますが、それと少し似ています。子どもが授かるというイメージを持てない2人に、神様はハッキリ子どもが授かることを話し言葉にして(パレーシア)、そのイメージを2人にプレゼントします。そして、そのイメージが本当に出来事になります。この、話し言葉‐イメージ‐出来事が結びついたときに、≪笑い≫が生まれます。アブラハムとサラの子は、イサク(笑い)と名付けられます。「神がわたくしに笑いをお与えになった」からですし、この話を「聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」からです。
眼の前の子どもと、心から楽しい(プレイフルな playful)関わりを繰り返す中から、この驚きに満ちた≪笑い≫がプレゼントされます。そのプレゼントを眼の前の子どもと分かち合うことが、私の出した、ささやかな答えです。
それだけじゃ足りないでしょう。それでも、私はその勤めを日々喜んでするだけです。
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