ウソやゴマカシよりも、ウソとゴマカシのない暴力の方がまし、と言うのは悲劇ですね。
p92の第2パラグラフ。
そのほかの理屈に合わない「大事にする気持ち」は、次の段落に出てまいります。でもそれは、根っこにある、子どもの頃の特定の要因を分析していません。
1つのウソとゴマカシの「大事にする気持ち」はよくあるものなんですね(そして、映画や小説でよく取り上げられます)。それはちょうど「大恋愛」が「偶像崇拝を大事にする気持ち」であるのと同じです。人は、自分を確かにする感じ、本物の私を感じる感じを、自分自身の力が次から次へと展開することに根差すレベルにまで高めていないならば、大事に思っている相手を「偶像にして」仕舞い勝ち。その人は、自分自身の力を無視するようになり、自分自身の力を大事に思う相手に投影するようになります。その相手が「最高善」であり、あらゆる博愛、あらゆる光、あらゆる至福を携えているものであるとして、崇めまつるんですね。このようにして、この人は、あらゆる強さの感じを失い、大事に思う相手との関わりで、自分を見つけ出すのじゃぁなくて、自分もなくしちまうんですね。
自律的になってないから、こうなっちゃう。自分を確かにすることを人に頼っちゃってますからね。やっぱりこの場合も、何故自律的にできないかを問えばね、自分は大丈夫、という根源的信頼感が脆いからなんですね。残念ですね。
でもね、日本人が大好きなパターンなんですよ、これが。 コンフォーミズム、同調主義がまさにこれですからね。自分で自分を確かにしたり、自分自身を感じることをあきらめて、「ヤクザナ奴」の奴隷になることで、あるいは、組織の一員として「うまくやる」ことで、何とか自分を確かにしようってんですからね。これだと、一生自分を確かにすることなどできないのにね。
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