手当てとぬくもりプエブロの思い出 自分を確かにする、揺ぎ無い道は、いつでも、自分以上、組織以上の存在から、たった一人でいる時に戴く確信に基づいています。私どもは、その悦びを......
今宵の聖書の言葉は、ἵστημι ヒステミー、「立つ」「立ち上がる」「置いてある」「現われる」「堅く決心している」…という意味です。とても多義的なことばです。
『新約聖書』の三番目のイエス・キリストの物語「ルカによる福音書」の9章に、昨日の徴税人とは別の徴税人ザアカイの話が出てきます。裏切り者、とんでもない奴、ゲドウ、と大多数の人が思っていたザアカイの話です。今宵も前田護郎先生の翻訳です。
「 ザアカイの入信
19章 1彼はエリコヘ入って町をお通りであった。2そこにザアカイという名の人がいた。取税人の頭で、金持であった。3イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低いので、群衆のため果たさなかった。4それで彼を見ようと前のほうへ駆け出して桑の木にのぼった。そこをお通りのところであったからである。5イエスはその場所へ来られると、目をあげていわれた、「ザアカイよ、急いでお降り。きょうはあなたの家に泊まることになっているから」と。6ザアカイは急いで降りて、よろこんでお迎えした。7皆はこれを見て、「彼は罪びとのところに入って客となった」といってつぶやいた。8しかしザアカイは立って主にいった、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、もし人から何かゆすったならば四倍にして返します」と。9イエスは彼にいわれた、「きょう救いがこの家に入った。彼もまたアブラハムの子である。10人の子が来たのは失われたものを探して救うためである」と。」
この「立って」が、ἵστημι ヒステミーのアオリスト分詞単数主格が使われています。
ザアカイは感激していて、座っていられなかったのかもしれません。ですから「立った」のかもしれません。
でも、自分の財産の半分を寄付します、というのは、ずいぶん思い切ったことですよね。徴税人は、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちやお役人たちと同様、税金をチョロマカシて、自分の懐にガッポリ入れていたんです。ですから、人々から嫌われていた…。それで、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちやお役人たちで、「財産の半分は寄付します」「税金をチョロマカシするのは止めます」と言った人はいませんでしょ。
ザアカイが、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、もし人から何かゆすったならば四倍にして返します」と言ったのは、今までのチョロマカシ人生とは別れを告げて、まともな生き方をします、という堅い決心を示していた、と私はみますね。てすから、「立った」のです。
自分で「立つ」のではないことに注意です。「立つ」ことなしには、いられないほどの感動と感激があったのです。
私どもも、そんな感動と感激を、日々の生活で味わいたいものですね。
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