今晩は、エリザベス・キューブラー・ロスの言葉に学びます(The Wheel of Life. 『命の巡り合わせ』から)。20,000人の死に行く人を臨床研究して、生と死を見つめた人。ぶっ飛んでいる感じありますが、同じユング愛好家として、私は親しみを感じています。キューブラー・ロスは、同じ精神科医として一番影響を受けたのは、Jung, C.G. ユングと明記しています。
神様が私どもに下さった一番素敵なものは、自由意思です。自由意思を下すったおかげで、一番貴い可能性に開かれていることを自分で選べる、という責任を担うことができますものね。
西村秀夫先生も、「聖書を学ぶ会」の学びで、繰り返し、自由、ないしは、自由意思の大事さを繰り返していたことを思い出しますね。
でも、その自由意思をどのように使うのかが、常に問題になります。
加藤周一さんは、西村先生と、高校(一高テニス部)、大学(東大)の同級生ですが、同じようなことを言っていましたね。日本では、第二次世界大戦の時に、レジスタンスはおろか、不服従さえ、極めて少数派であったのに比べて、ヨーロッパでは、かなり組織的にレジスタンスを行われていたことを振り返って、そのように仰っていたのを、インタヴュウで聞いたことがあります。「連帯が保障されるのは、究極的には、自由意思の問題です。どちらにも動ける訳、同志との連帯を取るか、裏切りを取るか、…個人の自由な決断が連帯を支える全てで、それ以外にはない訳です」と。
でも、これは、何もレジスタンスの限ったことではありませんね。
「お客様のため」を選択するのも、「お客を騙しても、組織の利益(上司のご機嫌取り)」を選択するのも、自由意思の問題で、それ以外ではない訳でしょ。
私どもは、キューブラー・ロスが教えて下さるように、自由意思を一番貴い選択をするために使いたいものですね。
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