「出す」のにも、いろんな「出す」がある筋肉と心と対人関係は、似ている。 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p36の第2パラグラフから。&nbs...
今朝は、独立の漢字学研究者、いや、思想家の白川静先生の言葉に学びます(『文字逍遥』から)。
遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは、神の世界に他ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてと言うべきかもしれない。…神隠るというように、神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知れるものであった。神を尋ね求めることを、「左右してこれを求む」という。左は左手に工の形をした呪具をもち、右は右手に祝詞を収める器の形である(サイ)をもつ。…左右の字をたてに重ねると、尋となる。
神は隠れていますから、眼には見えません。でも、遊んでいるとき、すなわち、真実に自由でいる時、あるいは、真実に豊かに創造している時に、神はかすかに、あるいは、ハッキリと姿を示してくれるのでしょう。
遊びと言えば、飲む・打つ・買う、と勘違いする人もいるでしょう。でも、遊んで楽しいのは、そして、神様が働かれる世界とは、全く別物です。それは、心から楽しいのに、なんだか、もったいない感じがあり、涙が出るほど嬉しいのに、自分の物ではない感じに身震いする感じもあるものでしょうね。
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