ナチと管理教育はご親戚筋 改訂版ナチと言えば、那智の滝。滝そのものが神道のご神体だそうですね。残念ながら、私はまだ一度もこの滝を拝んではいません。ただ、大学1年の時に尾鷲から大台ケ原まで沢登...
昨日「こころの時代」で、「森のイスキア」の佐藤初女(さとうはつめ)さんのお話を伺って、感銘を受けました。佐藤初女さんのお話はまた別の機会に。でも、本当に「正しいこと」(=δικαιοσύνηディカイオスーネ 「神の義」≒「組織のご都合を超えて、全人類、宇宙にとって正しいこと」)は、犠牲が伴うものですね。「犠牲を伴わないものは、本物の奉仕(セラピー)ではない」という佐藤初女さんの言葉は、日本のサイコセラピストには必要不可欠なことですね。学校や病院などの「犬 a dog」であってはなりませんからね。「犬」として仕事をしても、大したセラピー(もともとは「奉仕」の意味)は、決してできません。ブルース・ペリー教授が言う通りでしょう。
ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog より、p.210、真ん中あたりから。
ジェームズのケースでは、母親のマーレは「ドクターショッピング」をいつもしてたんですね。つまり、マーレは、ジェームズを「反応性愛着障害」と診てくれ医者を探して、自分のやることや判断に近い問いを問うてくれる医者のところに寄って行ったんですよ。マーレは、自分のやってることに賛成してくれるセラピストやソーシャルワーカーのいろんな意見を、児童福祉当局に伝えることはできましたが、反応性愛着障害とは診断しないセラピストやソーシャルワーカーのいろんな意見は、言いませんでしたね。
こういう親は結構いますよ。でも、マーレとはちょっと違います。愛着障害と言われたら、環境要因が大きいので、母親の不足、不十分を指摘することになりますね。その点、「発達障害」ADHDや自閉症と言われたら、「あぁ、この子がこんなであることも、私のせいじゃぁないんだ」と「安心」しやすい。ですから、愛着障害と言うようなサイコセラピストよりも、ADHDと誤診して薬を出す類の、ヤブ医者が、人気が出がちです。
しかし、昨日も指摘しましたように、学校も同様なんですね。学校に都合のいい「犬」として立ち居振る舞う「セラピスト」の方が、学校を子どもひとりびとりが生きるように、苦言を呈するようなセラピストよりも好まれますね。日本語ではそれを「協調性がある」と言いますけれども、これは多数派の暴力そのものです。つまり「協調性」=「多数派の暴力」なんですね。
ナチと管理教育を見れば、それは火を見るよりも明らかです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます