「放蕩息子」の譬えが訳し終えましたね。
p354の下から3行目から。
その譬えの離れた2つの部分によって、私どもは迷子になった息子に共感したり、お兄さんの方に共感したりすることになりますでしょ。そのお兄さんの息子は、弟に関心を向けすぎですよね。でもこの譬えは、とても公平に構成されていますから、読み終えた時には、2人とも私どもの心中で争っている感じが分かります。たまたまこの譬えの場面全体が、当時の聞き手にとっては、ごく普通のこととして受け取られていたに違いありません。というのも、当時若い息子たちが父親に、たとえば、レパントのとある町で、自分の財産を分けてほしいと申し出ることは、割とよくあることでしたから。そこで、本当に目立つものは、その若い息子の非行傾向であり、たまたま起きた飢饉です。その飢饉があったために、その若い息子は、外人の農場主に頼らざるを得なくなって、豚飼いをやらされることになったわけです。奇妙なことに、当時は、羊飼いになったって、その人はハグレ者か、「外人の人でなし」と見なされたんですね。 その手の人とイエスは自由に友達になったんですが、しかし、お兄さんのような、ファリサイ派の人たちからは、見下すのが「正しい」とされていたんですね。父親は、若い息子のあらゆる不運を知ってか知らずか、まさしく礼拝となった父親の歓迎におかげで、若い息子の失われた地位が、父親にとっても数に入らないものであるという事実が白日もとにさらされます。ルカによる福音書のテキストが語ったところによれば、父親が若い息子に気付いたのは、近づく息子がまだ「相当の遠くにいた」時だとされます。ついでながら、キング・ジェームス版の聖書によれば、若い息子は「遥か彼方に」いた時に、父親は若い息子を見出したとされますし、許しのキスから高貴なお客様仕様とローブまで、あるいは、特別な地位を約束する指輪から肥えた牛まで、全てが長年織り込み済みだったとされます。
プロビデンス 神の摂理そのものですね。
許しはあらかじめ織り込みなんですからね。
感動しない人がいたら、顔を見てみたい。
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