本田哲郎神父の番組は良かったですね。カトリックと言えば、いろんな方に学んでいます。マザーテレサ、ヨハネ23世、雨宮慧先生、山浦玄嗣さん、そして、本田哲郎神父です。前のお2人は、すでに神の御許の帰られて、後の3人は、この世に健在です。
「マルコによる福音書」の第10章13節~16節に子どもの話が出てきます。子どもが母親に連れられて来て、イエスに触ろうとしたんですね。何か「病気」だったかのかもしれません。ですから、触ってもらって、文字通り「手当」をしてもらいたかったのかもわかりません。騒いでいると、イエスの弟子たちが、叱ったと言うんですね。何と叱ったかは、「マルコ」にも「マタイ」にも「ルカ」にも記録がありません。「騒いでちゃあ、ダメでしょ」などと言ったのかもわかりません。いまでも、学校の先生が言いそうなことです。そしたら、イエスがその叱った弟子を叱ったって言うんですね。その部分を本田哲郎神父の『小さくされた人々のための福音 ―四福音書および使徒言行録』p.215 から引用しておきましょうね。
「幼子たちを、わたしのところに来させなさい。妨げるな。神の国は、このような人たちのものだからだ。はっきり言っておく。幼子のように神の国を迎え入れる人でなければ、神の国には入れない」
神の国は、スイスや韓国のような領土ではなくて、「あなた方の只中にある」(「ルカによる福音書」第17章第21節)関係でしたね。子どもって、やり取りの塊ですからね。こちらがそのつもりでいれば、必ず子どもとはやり取りができますもんね。子どもって、人に教えようとしないでしょ。何かを見つけても、「〇〇があったよ」と言う時も、”教える” という感じじゃぁなくて、”分かち合おう” という感じでしょ。それは本田哲郎神父の言葉を借りれば、子どもが「立場が弱い者」「低みに立たされている者」だからですね。
やり取りをしてますと、不思議に向きが生まれてきますしね。それがオリエンテーション。光の道です。ですから、やり取りをしてますとね、必ず、温もりと明るさを感じますもんね。
昨日の「光の道」
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