オイラン草(花言葉は、合意、一致 だそうです)
最も人間らしい、とは、敵であっても、対等な人間として認め、受け容れる、ということだそうです。それは、やはり、最も人間らしい、ということは、「一つの人類」を信じる、ということでしょう。それは同時に、いつでも何度でも、「敗者復活」を、信じ、また、認めて行くことに他なりません。その技術が非暴力、ということになります。
さて、今日は、人間の自由と、違いを認めることの関係についてです。
ゲーム(勝負)は、一人の人がおもちゃの世界で遊ぶ遊びと政治の舞台の間の途中にあります。この政治の舞台で、人類は、地域に住む人がやり取りすることで、結束し、仲間になったり、お互いに争ったりするルールを確立します。それぞれの政治単位である人の集団も、一つのヴィジョンを共に見ることによって、集団の在り方が決定的に違ってきます。その「共に見る」ヴィジョンにしたがって、あるきまった1つのタイプの人が、個人のゆとり(現代では、自由、と呼ばれています)を最大限に享受しています。それは同時に、その人は、伝統的な対立を合法化するシステムも持ち合わせています。ある政治的単位である集団と、その集団の下層の人々の間の対立、あるいは、ご近所の政治的な地域間の対立に関しては、ある程度まで、 「争うためのルール」が存在するように思われます。複雑な「戦争の勝負」においてのみならず、戦争行為そのものにおいても、軍隊、と呼ばれる一種の駆け引きは、いくつかのグルーブの人間同士が、最前線で交戦する、という事態に突っ込んでいきます。その時、自らを特別な人種にでっち上げる、羽毛飾りによって、その人々は飾り立てられますし、また、独特の指導者たちが、高貴な条件の下で、より一層の栄光のために、徹底的に殺し合っていることに、その人々は鼓舞もされてもいるのです。もちろん、こういったことはすべて、銃から爆弾に至る機械化によって蝕まれてきましたし、 「やりすぎ(核による過剰殺戮)」を冷徹に計画もし、語りもすることができる人が、技術が自己目的化した社会の「新しい人」なのです。私どもはきっとそこまで行くことでしょう。まさにその理由の故に、非暴力の理念、それから、非暴力の理念を支持する、いつも短い祈りを心の中で唱えるような心構えが、人類が生き延びることを約束する一人の保証人として、定着しているのです。
とにかく、遊びが政治と関わる関係を、生育歴の中で作り直すとすれば、それは、個人の自我を発達されるために儀式化されたやり取りの意味を問うことから始めなくてはならないでしょうし、ゲームの中にある政治的要素から政治行動の中にあるゲーム(勝負)の要素へ と進んでいかなくてはならないことでしょう。
人間らしい暮らしには、対立を許す仕組みがなくてはなりません。それが、「伝統的な対立を合法化するシステム」であり、「争うためのルール」なのです。対立のための仕組みがあって初めて、人間らしい暮らしにとって不可欠の、自由も保障されるわけです。そのことを、特に日本人は忘れがちです。なぜなら、日本には、あるいは、日本人には、対立を認める仕組みがありませんし、日本人は、「全会一致」が原則で、そこに少数意見が存在することは「事故」と見なしても、少数意見が存在することを認めない、からです。ですから、日本人には自由がありません。 「全会一致」は、そのものが、「やりすぎ」なのです。しかし、日本人の意識では、「全会一致」が、自分たちの自由を奪っている、とは考えません。対立を認める仕組みとは、異質を認める仕組みですし、少数意見を尊重する仕組みですし、もっとはっきり言えば、それを保証する立憲主義(権力、つまり、時の政権に、人権という少数意見を守る義務を負わせる考え方)です。そのことに思いを馳せていただきたいと思います。
さて、人類が、核と原子力の時代を生き延びるためには、非暴力と、非暴力の理念を支える、短い祈りを心の中でいつも唱えているような心構えが、必要不可欠であることを、エリクソンが教えてくれていることに、感謝いたします。
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