エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

最も人間らしいこととは? 負けさえ気持ちよく楽しめる技術 : 非暴力

2013-07-16 03:53:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 動物たちが、争いを回避するための行動を本能にプログラミングされている、ということは、生物の英知なのだろうと思います。しかし、それがまさか、マハトマ・ガンジーやマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の先駆け・ひな形だと思ったことは、私は一度もありません。エリクソンは、人類の進化の歴史と、一人の人間の発達の結びつきを非常に重視して、人間の発達を見ていたのだろうと思います。それは、「人間を2つに分けるウソ」を排して、エリクソンは「一つの人類」を信じていたからだと思います。 

 今日は、最も人間らしい、とは何か? が話題です。

 

 

 

 人類という種においては、習慣になった、いくつかのゲームは、特別な空間と計画された時間に結びついた場で、行われます。ある程度の数の参加者たちは、対立しているけれども対等なチームに分かれます。それぞれのチームは、バッヂによって区別され、不思議な名前でも区別されることも多いのです。この運動場はたくさんの観客が見ているかもしれません。その観客たちも、自分たちのごひいきのチームへの思い入れで、2つに分かれています。そのゲーム(の勝負)は、忠誠心、技術、運の試金石として、一つのチームに有利になるように、決められます。でも、もう一つのチームも別のチャンスが約束されます。このように、それぞれにごひいきのある観客は、自分のチームの忠誠に大いに努力しながらも、相手チームにも逆に一体感を持つこともまだできます。相手チームも、同じスポーツのプロですし、同じルールを守っていますし、同じ運に従っていますから、原理的に、平等なチャンスに賭けているのです。それぞれのチームの選手は、いずれのチームでも、少なくとも自分がプレイしている間は、自分も駆け引きをするようにならなければなりません。この駆け引きは、情熱と忍耐力、規律と創意工夫と結びついていますし、こういったことすべてのおかげで、最高の選手たちが、新しいシーズンの、新しいチームの、あの新しい人の象徴になることができます。このようなゲームでリアルに感じることにおいては、(その新しい人を)象徴する行動が命懸けで行われることもありますし、(その新しい人を)象徴する感情が体験されることもあります。さらには、新しい人を)象徴する破滅と勝利の繰り返しが受け入れられてしまうこともあります。この象徴的な破滅と勝利の繰り返しは、現実の生活であれば、一つのチームが他方のチームを完全に支配することだったかもしれませんし、徹底的に打ち負かせてしまうことになったかもしれませんが、それは同時に、あらゆる残忍さリアルに感じることを捻じ曲げてしまうことが、異質なもの同士の中にいつまでも続く敵意結びつき、火に油を注ぐ、ということを伴ってしまうものなのです。駆け引きにおいてこそ、人は最も人間らしくなるのですが、最も人間らしい、ということは、自分の敵対等な人間として受け止める、という意味です。一方のチームが、相手チームの大事なものを力ずくで取り上げずとも、快勝を楽しむことができるのと同様に、自分のチームの大事なものをすべて失わずに、鮮やかな敗北も気持ちよく楽しむことができるのは、技術や好機のバランスが、両チームでとれている場合です。多分、政治において、これに最も近いのは、非暴力の技術ですが、この非暴力の技術は、ガンジーが発展させ、実験もしたもので、類の宗教的クセのある者同士や政治的クセのある者同士の和解を求めるグルーブには、心をひきつけることもあるものなのです。

 

 

 

 

 ガンジーやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの非暴力の登場です。エリクソンは、この非暴力の技術を、一つのグループが、他のグループを、徹底的にやっつけなくても、勝利を愉しむ技術であると同時に、一つのチームが、たとえ負けても、徹底的にやっちまわれることなくして、負けたことまでも潔く楽しめる技術として位置づけているところが、非常に卓越している、と思います。

 それにしても、ここでも、エリクソンは2つの可能性を私どもにはっきり示してくれました。

 ひとつは、青字にピンクのマーカーで記した部分です。すなわち、「新しい人」が、「私」が「相手」を徹底的にやっつけてしまうイメージの時、

1) あらゆる残忍さ

2) リアルに感じることを麻痺させ歪めてしまうこと、それに、

3) 異質なものに対する敵意

この3つが結びつき、無意識の暴力的な火に油を注ぐ関係になってしまうのです。それは、あらゆるいじめ、差別、暴力、ジェノサイド、戦争の心理的背景になってしまいます。

 もう一つは、赤字に黄色のマーカーで記した部分です。すなわち、

最も人間らしい、とは、自分の敵でも対等な人間として認め、受け容れること、です。そういう場合、

1) 敵であっても、徹底的にやっつける、ということはしない

2) またチャンスがあるので、たとえ負けても、負けさえ気持ちよく楽しめる

3) 対立があるところに和解をもたらす

ということになります。

 こういう時には、かならず、ユーモアが人々の間を繋ぎ、気持ち良い笑いが場を包むことでしょう!

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