第二章第1節「やり取りのいろんな舞台」は、いかがでしたでしょうか?子どもがおもちゃで遊ぶところから、大人になってからの政治(家庭生活から国際政治・戦争まで)までが一続きであることが分かりました。その中でゲーム、すなわち、二つのチーム(「鬼ごっこ」などのように、一人対その他、の場合もあります)で勝負する遊びが、その中間にあるといいます。面白いですね。
しかし、そのゲームも、遊ぶ時間、遊び場の範囲、ルール、メンバーなどを「共に見る」ものです。「共に見る」中身がどんなものかで、その後の人生が決定的に異なってくる、という指摘も重要でしたね。
ゲーム・勝負が自己目的化し、相手チーム・敵が、異質な存在と見なしてしまう と、それは、
1)残忍さ、
2)リアルに感じることを捻じ曲げること、
3)「違い」に対する敵意・憎悪
と結びついて、あらゆるいじめ、あらゆる暴力、あらゆる差別、あらゆるジェノサイド、あらゆる戦争、あらゆる自己中心の温床となってしまいます。
逆に、ゲーム・勝負はあくまで、「陽気で楽しい」ためにあり、相手とお互いに価値あるものと認め合うためにある、という目的意識をはっきり持っている場合は、違った結果、違った人間関係、違った社会を作ることができます。それは、
1)敵であっても、対等な人間であり、仲間である、と認めること、
2)自分が負けても、敗者復活を信じ、相手が負ければ、敗者復活を認めること、
3)争いのあるところに和解をもたらすこと
をもたらしてくれます。仲間(kind)だからこそ、親切(kind)にできるのです。
人は、違い、少数意見を認めれば認めるほど、自由になれる、ということも大事でしたね。それは、後者の場合にしかないことをハッキリ意識して、暮らしていきたいものですね。
さて、今日から、第二章第2節 「人類を一つと見るのか、それとも、2つに分けて見るか と、儀式化」に入ります。
第二章第1節の結論で、私が示唆したことは、人の陽気で楽しいことを、人が自由になることにも繋げるし、人が束縛されることにも繋げるのは、まさに、「人類を2つに分けるウソ」という条件次第かもしれません、ということでした。あるいは、やり取りのある暮らしが増していくのか、それとも、手応えのない暮らしがますます悪化するのかの別れ道も、ピチピチ、キラキラした暮らしが増し加わるのか、それとも、生きているのに「もうだめだ」と死んでいる暮らしがますますひどくなるのか、の別れ道も、「人類を2つに分けるウソ」の扱い方次第かもしれません、ということです。なぜなら、人類の最古の遺産、すなわち、自己嫌悪(自分自身を憎むこと)と他者を憎むことが運命を左右するほど互いにガッチリ結びついていることとの関連で、「人類を2つに分けるウソ」は、人類の歴史を今日、核の時代に至るまで、支配してきた、からです。しかしながら、ここで私が強調したいことは、人類が、全体としても、どの一部でも、「人類を2つに分けるウソ」が「現実になっている」、ということを申し上げているのではない、ということです。私が申し上げていることは、人類という種の現状には、「人類を2つに分けるウソ」に向かう、人の心に埋め込まれた心構えがある、ということです。そして、この「人類を2つに分けるウソ」に向かう、人の心に埋め込まれた心構えは、一定の条件が整った時には、人類をバラバラに分断してしまって、自分たちが別々の人種であるかのように、振る舞うようにさせてしまう、ということです。
「人類を2つに分けるウソ」の取扱方が決定的に人の運命を左右していることが、ハッキリ分かります。なぜなら、そのウソが、自分を憎む気持ちと相手を憎む気持ちが結びついて、これまた、人の運命を決している、その、2つあるように見えて、実は一つの憎悪と結びついて、人類を今日に至るまで、支配し続けてきたからだと、エリクソンは教えてくれています。
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