バラモン教にまで話が及んでいます。
p70の下から7行目の途中から。
宇宙の中や、人の中にある究極的な力は、概念的側面も、感覚的側面も、≪超越≫します。したがって、それは「あーでもなければ、こーでもない」んですね。しかし、ジマーが言うように、「厳密に二元論に分けない理解においては、『本物とそうでないもの』の間の敵対心が全くなくなります」。多様性の背後にある連帯を求める際に、バラモン教哲学者は、いつくかの対をなす対立は、ものの性質を示すというよりも、受け止めた心の性質を反映する、との結論に達します。受け止めた考えは、変化しなくちゃなりませんが、それは、その考えが真の現実を捉えようとする場合です。敵対しているのは、人の心にある概念であって、現実の要素そのものが敵対しているわけではありません。リグ・ベーダの中に、その原理は次のように記されています。「私は2つ、生きる力と人生の素材と、同時に2つです」。二律背反としてしか受け止めきれない、この考えの究極的結論は、リグ・ベーダの哲学の中に、猛烈な力のある流れを作ってきたことが分かります。この哲学が前提とするのは、思想とは、きれいな定義があっても、「無知の、非常にハッキリしない水平線でしかありませんし、実際マヤの人々が考えた人を欺く仕掛けの中で、一番ハッキリしないものなんですね」。
ヴェーダ哲学の「一元論」を展開している部分のようにですね。2つに分けて考えるのは、心が分裂しているからだとする見方は、心理の見方と完全に一致していることを、ここでは申し上げておきたいと思います。
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