制度や法律は、それを創り出した精神が必ずあります。しかし、制度や法律が運用されだすと、運用そのものに自動操縦、オートパイロットの性格がありますから、もともとの精神がなくても動いてしまいます。これが形骸化です。ですから私どもは、制度や法律が、その精神を順守しているのか?運用しているものが、その精神を活かしているのか?をウォッチングして、批判的でなくちゃあいけませんよね。
p340第3パラグラフ。
しかしながら、ユダヤ人の地域社会には、日常生活の中に礼拝が、かつてありましたし、今でもあります。この礼拝は、ユダヤ教では非常に大きな役割を果たしてきたはずです。私は家族の生活のことをお話したいと思います。家族の生活が、キリスト(ヘブライ語で「ナザレのイエス」のことです)が定式化した過程に深くとどまっているからです。ナザレのイエスは話します。「宗教と日常生活を隔てる中垣を壊して一つにし、日常生活を宗教のなくてはならないものとなすと同時に、宗教を日常生活になくてはならないものとなす傾向。それは聖なるもので、したがって、不敬ではないないけれども、地上に下されたもの。世俗生活そのものが、宗教的なお勤めの神聖さになる」と。
ここは特に不思議な件です。日常生活そのものが、宗教生活になくてはならない本質を為すというのですから。そんな馬鹿なことがあるのでしょうか?
フロムに従えば、それば「ある」ということになるのでしょう。なんせ「世俗生活が宗教的なお勤めの神聖さになる」と言うのですから。
今後か楽しみですね。
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