エリクソンのアイデンティティとライフサイクル・モデル。カナダはウェスタンオンタリオ大学のルース・ラニウス教授のお話を伺っても、そのお話、今の最先端の研究ともピッタリと符合している。もう60年前に気付いたモデルですが、今でも非常に役立ちます。
今日からp339の第3章。
しかし、私どもは、この危険について、二言三言さらに申し上げるべきでしょう。その危険と申し上げるのは、素晴らしく、中心を占める、宇宙的な力の恵みを信頼する、圧倒的な信頼を、毎年、毎日、確認する礼拝に降りかかるかもしれない危険です。ここで私は、対人関係のやり取りの中で、個人にある強迫性に対応する現象に宛がうのに不可欠だと分かる1つの言葉をご紹介しなくてはなりません。私はそれを「形ばかりの言い訳」と呼びます(『おもちゃと賢慮(みすず版は『玩具と理性』)』)。最も偉大な礼拝でも、結局は、繰り返しの、些細な日常のおざなりになる場合があります。献身の対象となる崇めるイメージも、偶像崇拝になります。細々した「ねばならないこと」に繋がれば、お役所仕事になりますし、ドグマと繋がれば、安倍晋三首相のような偏屈になります。これは、事の性質からして危険だと感じられるような状況下では、なおさらです。つまり、そのこととは、イエスの時代のように、ギリシア化の衝撃のもとに、民族が力を失い、文化的な継続性まで失ってしまった、ということでした。
日本も、バブル崩壊以降、「失われた20年」の間に、このイエスの時代のヘレニズム化の影響どころではない、非常に大きな影響を受けてしまっているんですね。ですから、今は、会社や組織が偶像崇拝の対象になっていますし(「会社の、上司のいうことだから、しょうがない」)、仕事の中身が「お役所仕事」ですし、安倍晋三政権のやることなすことは、偏屈なことになるんですね。
まともな礼拝、人類を超えた、≪超越≫の価値に開かれた、スピリットとやり取りのある人間関係にこそ、この偶像崇拝とお役所仕事と安倍政権の偏屈を打ち破るダイナマイトの力(デュナミス・セウー)が確かにありますね。
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