子どもが本気になる時私は日々、小学生の心理臨床をしていますでしょ。それも、学校で「問題アリ」という子どもが相手です。その「問題」は、「授業に集中できない」、「落ち着かない」、「勉...
ブルース・ペリー教授が関わるクリニックで行われているように、民主主義的でオープンな話し合いが出来るチームの治療は、子どもの福祉と人権に適う治療になる場合が多いです。筑波の石隈利紀先生が推奨する、学校での心理的支援も、基本が民主主義的で、人間中心なアプローチであるのは、アメリカでの経験が、生かされていると感じますよ。
ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog より、p.206の最後あたりから。ブルース・ペリー教授が描く愛着障害と間違われた子どものお話の続きです。
もしも、子どもが反応性愛着障害ならば、やり取りがないことと、愛着がないことは、コインの裏面です。対人関係には相互性のある神経生物学、すなわち、私どもの「ミラー・ニューロン(鑑のような働きをする神経細胞)」がこれを作ります。結果として、愛着障害の子どもは、人と一緒に作業をすることが難しいものですね。というのも、他者に対する関心もなければ、人の気持ちが分からないために、人から好かれることもないからです。人とやり取りしても、空しいだけですから、関わりません。ステファニーは、反応性愛着障害の子どもと関われないことに動揺するはずもありません。すなわち、失うべき関わり合いが全くなかったわけですね。セラピストも人間です。反応性愛着障害の子ども等と関わっても、報われませんから、愛着障害の子ども等と関わることは、重荷に感じます。悦びではありません。愛着障害の子どもの冷たさや不愉快さが、怒りや絶望をもたらすので、親たちは、残酷で、他罰的なセラピーに魅力を感じる人が多いのでしょうね。また、だからこそ、セラピストも、この手の、子どもの福祉と人権に反するやり口にこだわるのでしょうね。その手のセラピストはセラピーが終結するとホッとするものですね。でもね、ジェームズは、ステファニーにも、私にも馴染んでくれましたから、ジェームズについて論じた通り、ジェームズは本当は反応性愛着障害ではない、と分かったのでした。
愛着障害の子どもは、やり取りがありません。抑制タイプの愛着障害の子どもは、表情に乏しく、人を避ける感じです。脱抑制タイプの愛着障害のこどもは、誰彼かまわず関わろうとするので、やり取りがあるように見える場合もありますけれども、ブルース・ペリー教授がすでに指摘しているように、この関わろうとすることは、「子分になります」というメッセージにすぎませんから、やり取りではなく、従属関係になるだけのこと。結局やり取りではありません。
やり取りがない関係を続けるのは、反応がない関わりを続けることになる訳ですから、怒りと絶望が湧くのも、ある意味自然かもしれません。そこで無理矢理に関わらせるような、強制的なやり口が、アメリカでも、日本でも、幅を利かせることになります。
私どもがすべきことは、ハッキリしますよね。そういう身勝手な大人の関わりから、子ともらを守り、最初の舞台の発達危機を、根源的信頼感を育む形で乗り越えられるように支援することですね。
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