遊びには、一級の芸術を創造する時と同様な、独創性と完成度がある、ということは驚きではないでしょうか。また、遊びには、「最も深い意味で治癒力がある」ということも、意外でしょうね。では、子どもが遊んでいると、「いつまでも遊んでないで、勉強しなさい」と大人がすぐに言うのは、何故なんでしょう。おとなにとって、遊びとは役に立たない暇つぶし、としか考えられないでしょうね。もったいないことです。大人も昔は子どもだったのに、遊びがそんなに創造的で、治癒力があることに気付かなかったのでしょうか?多くの場合は、子どもは無意識に遊んでいますから、たとえその中で治癒力が発揮されていても、それを意識する大人がいなければ、子ども自身は意識できないのですね。
さて、今日は臨床的気付きについてです。Toys and Reasons. p.54の下から2行目から。
しかも、私どもに臨床的気付きを教えてくれたのは、フロイトその人でした。その臨床的気付きのおかげで、人間の子どもの時期が長くなったという事実に固有の、未熟な段階に留まり、逆戻りしてしまう力が裏付けられているのです。人間の子どもの時期が長くなったということは、フリをすることにドップリと馴染んでしまう、という状況そのものを含みます。そのフリをすることにどっふり馴染んでしまう状況は、創造的に陽気で明るい、ということにもなりうるだけではなく、破壊的な程ごまかす、ということにもなりうることをも、私どもは示さなくてはなりません。というのも、発達上の気付きによって私どもが必ず分かることとなれば、それは、いかに人間(「遊ぶ人」であり、また、「知る人」、「立つ人」でもある)が、陽気で明るいという事実そのものと情緒的にやり取りをしてきたか、ということですが、それは、子どものころは、遊びとフリ(ですから、あらゆる詩のゆりかごであると同時に、あらゆる無責任のゆりかごでもあるのですが)が全てですが、大人は、(大人は“しばしば苦労して”遊ぼうと決心しない限り)概して、まじめで現実的である、ということを決めてかかった上での話だ、ということでもあります。
信頼できる研究は、もし、そういったものがあれば、の話ですが、子どもの時期の本質を理解する上で最良の方法でしょう。しかし、科学的研究は、また、殊に、人間の実存に関する分野においては、それ自体先入観を含んだ展望によって左右されているのです。したがって、日々一貫した内省を続けることで、初めて、私どもは、私どもの目の前にいると同時に、私どもの心の中にいる子どもに対する大人の態度をハッキリと理解することができるのです。
最後にあるような文章に触れると、“エリクソンは止められない”と感じます。子どもは、目の前にいると同時に、心の中にもいるのです。ですから、私ども大人と、目の前にいる子どもとの関係は、私どもの心の中にいる子どもに対する私どもの日頃の、概ね無意識的な関係が色濃くにじみ出てしまうのです。逆に申し上げれば、心の中にいる子どもとの関係を意識して良いものにしてやり取りしていれば、目の前の子どもとの関係を、意識して良いものとしてやり取りすることもできるのです。素晴らしいことです。
フリをする、見せかけることには、創造性とごまかしが共存しています。そのことも、ハッキリ意識していたいものです。なぜなら、意識していないと、ごまかしの方に傾く危険があるからです。逆に申し上げれば、フリしていることを意識していると、それは、創造的になる可能性が高くなる、ということではないでしょうか?素晴らしいことです。
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