現代人は「偽物」と言う名のアヘンの常用者。そのアヘンのおかげで、1人ぼっちで、バラバラである自分自身の痛みを和らげてもらってる。
p94の第2パラグラフ。
もう1つ別の、不安神経症的な「大好き」は、投影を使うものですね。その投影を使うのは、自分自身の課題は棚に上げといて、「大好き」な人の欠点や短所を、ああでもない、こうでもない、と心配するためなんですね。それぞれの人は、この投影を使うのが正しいと信じているのは、集団でも、民族でも、宗教でも、投影を用いてもいいと信じているのと、同じです。他人のちっちゃな欠点でさえ、シッカリ見落とさないけれども、自分自身の欠点は、この上なくお幸せに、これから先、問題にしないんですね。何時でも、非難しようとしたり、変革しようとするのは、御他人様。もしも2人が、投影しあったなら、それは実によくあることですが、その恋人同士の関係は、投影しあう関係に変わってしまいます。もしも私が、仕切り屋だってり、煮えきらなかったり、あるいは貪欲だったりすれば、私はパートナーを責め、性格にもよりますが、その相手を直そうとしたり、罰しようとしたりします。その相手も同様ですから、2人はお互いに自分自身の課題は棚に上げて、自分自身が発達するために助けになる段階を引き受けることができません。
この投影は、日常的に実によくあることなんですね。投影とは、自分の影を相手の投げる如く、自分の欠点を相手の欠点だと、無意識裡に誤解することです。投影をすればするほど、自分の欠点の中にある発達課題に向き合うことができませんから、発達することができなくなります。
キリスト教では、投影の弊害をよくよく知っていましたから、投影を止めて、自分の課題を引き受けてね、自分育てをしてくださいね、と言う聖句が聖書にいくつも出てきます。その一つが、
「まず自らの目から梁を取れ」(前田護郎訳)(マタイによる福音書第7章5節)
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