ロバートは先生にも恵まれていたので、本当に良かったと思います。「自分から物事をはじめても良いという感じ(自発性)」が、「自分は悪い子という感じ」に勝って、のびのびとした小学生になっていったと想像します。子どもの不安をハッキリ言葉にすることがいかに大きな恵みか分かるだろうと思います。もちろん、ロバートにとっても大きな恵みであったことは間違いありません。前にも申し上げましたように、ヌミノースと言っていいほどの体験を、ロバートはその時に必ずしているはずだからです。そのヌミノースのおかげもあって、「自分から物事を始めてもいいんだ」と子どもは感じるのです。
今日は、この先生のように子どもの不安をハッキリ言葉にすることになったことを、エリクソンは詳しく論じます。Toys and reasons p.37の第2パラグラフ。
しかし、もしその先生の言葉が、今回のように意義深いやり取りのある言葉になったとしたら、この先生の言葉は、個人的な(不安をハッキリ言葉にする)表現としてそうであるばかりではなくて、あらゆる世界に対する見方に対して重要な一定の変化をもたらす一つのお告げとしても、意義深いやり取りのある言葉となりました。その変化とは、その先生の生涯のおいても、この子の生涯においても、一方では、人権運動によってもたらされてきた変化ですし、他方では、近代教育によってもたらされてきた変化でもあります。子どもの生きている実感を引き出すことを日常生活の中で礼拝にするものと呼ぶものについては、後ほど論じることにします。互いに相手の下に立つ 聖書の神様がまします場だけで、発達を可能にし,発達する勇気を子どもに与えることができますし,2人が互いに豊かな心で相手の下に立ち,大事にしあうことを約束します。
積み木遊びは、ですから、小さな建築家の心の世界とその子の社会の変化している世界観の間で、賢く折り合いをつけている、と見なすことができます。したがって、私が積み木遊びを用いるのは、私が説得力のあるものにしたいと思っているのですが、個人の自我の時空をハッキリ表現することへの導入として、です。個人の自我の時空は、確立されている、ないしは、進歩しつつある世界観の時空と常にやり取りをする中に、生きているのです。
積み木に、作った人の心の世界とその時間と空間が映し出されているだけではなく、作った子どもが属している社会の文化にある時間と空間も映し出されている。これはほとんど日常的な意識ではとらえられないものではないでしょうか?通常は、「単なるお遊び」と見なされて、あまり顧みられません。エリクソンはそこに、子どもの心の時空を見て取るばかりではなく、その子の社会の文化における時間と空間までも見る、なんと素晴らしく奥行きのあるものでしょうか?
今回ハッキリ出てきた、学校の日常を礼拝にする礼拝、すわなち、学校が子どもの礼拝を日常生活の中で行うことは、これまた、とてつもなく大事ですね。このロバートのその先生のやり取りの中に、その一端が現れていることを、指摘しておきます。
聖書の神様がまします場で,互いに大切にしあう日常生活の礼拝だけが,私が生きている実感を育て合い,それぞれが発達することを可能にします。
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