ロバートの危機が、幼児後期の「遊びの時期」の危機、「自発性(自分から物事を始めていいという感じ)」と「自分は悪い子という感じ」のどちらが勝るのか、という危機にあります。それはエディプスの危機でもあるわけです。「自分は悪い子という感じ」が優る時、その子は(大人になってからも)、悪いことを平気でやりだす(罪深い自発性の)人になってしまうのです。恐ろしいことです。これは以前にも、「酒鬼薔薇事件」や「秋葉原事件」に触れて、この幼児後期に温もりにある関係に恵まれず、したがって、この時期に「自分は悪い子=ガラクタ」と思い込まされてしまった子ども(そして、その子が大人になってから)のことを話題にしましたね。簡単にごみ箱に捨てられるガラクタでは、我慢ならないので、「立派なガラクタ」になろうと、文字通り、「死に物狂い」に「頑張る(我を張る)」のです。その結末は、エディプス同様に明白です。最近の事件では、NHKスペシャルで事件のあらましが紹介されていた「尼崎連続殺人死体遺棄事件」の角田美代子にも、まさにエディプスの呪い、悪いことを平気でやりだす心の傾きを見ます。
特別な積み木を、他の同様に特別な積み木と比較するとなれば、それは手間のかかることでしょう。ですから、私は読者諸兄にお願いしなければなりませんが、このひとつの積み木遊びが、この5才の少年が手元にあるおもちゃを所定のテーブルに並べた熱心さと能力を示す実例として、妥当性があり、しかも、おそらく、朧気ではあるけれども、唯一の意識的な「声」であると受け止めていただければと思います。その「声」は一つの不安の種の解決策を劇的に示しています。不安の種は、そう付け加えてもいいと今思いますが、この少年一人に限ったことでも、この少年自身の空想がちな生活にだけ限ってあることでもありません。というのも、多くの黒人の若者たちも、身体的活力・身体的表現能力と学業における自信のなさに、相対的にバランスを取れずにいるジレンマを共有しているからです。このロバートの事例で並はずれているのは、この少年が不安の種にピッタリの言葉を見つけたことですし、その言葉をその先生に委ねていたことです。同様に並はずれているのは、その先生が大事な答えを見つけたことですし、その少年がその答えを自分の積み木の中に表現できたことです。
エディプスの呪い、悪いことを平気でやりだす心の傾きができてしまうことは実に恐ろしいことです。そういう事例がこの何十年間日本に繰り返し現れていることは実に残念で、実に恐ろしいことです。社会の病理、家庭の病理、人格の病理が重なってそこに現れていると私は考えます。ロバートの事例は逆ですね。自分の不安の種にピッタリの言葉、自分の不安の種をハッキリさせてくれる言葉を見つけたこと、その言葉を自分の先生が見つけてくれたこと。この2重の発見があるからこそ、「自分は物事をやりだしてもいいという感じ」=「自発性」を自分の心の傾きにすることができたのだと考えます。これこそ、不安をハッキリ言葉にすることの恵みです。つまりそれは、「2重に聴く」ということがあったからだと考えます。この「2重に聴く」はまた別の機会に。
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