毎日礼拝。聴きなれない言葉ですよね。「日曜礼拝」なら、聞いたことがあるでしょう。でも、「日曜礼拝」だと、本当の「礼拝」になっているのかどうかが怪しいと私は考えます。
「礼拝」というと、クリスチャンだけのものと早とちりをする場合がありますね。でもね、「礼拝」を、「ある価値観・ヴィジョンを共有する行為」だとすれば、家庭生活でも、学校生活でも、それは「礼拝」になっている可能性が高いのではないのかなぁ、と私は感じています。
ただこの場合、「礼拝」で共有する価値観やヴィジョンが、必ずしも「良いもの」ではないこともあるでしょう。困るのは「人間を上下2つの分けるウソ」のヴィジョンが植えつけられてしまう場合です。
いま家庭や学校で子ども達に伝えているヴィジョンは、「人間皆兄弟」でしょうか? それても「人間を上下2つに分けるウソ」の方でしょうか? 金森俊朗さんのような人もいるので、一概には言えませんが、「人間皆兄弟」ではなくて、「人間を上下2つに分裂するウソ」の場合が少なくないのじゃないかなぁ、と感じています。意識してわざと「人間皆兄弟」ということを、具体的な場で実践したいものです。
それは何よりも話し合いでしょう。あるいは、陽気で楽しい遊びです。そう、遊びが「毎日礼拝」になるんですね。
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