「放蕩息子」の譬え、長い譬えです。しかし、許しがはじめから予定されていることが何よりの福音であることが、ハッキリ示されます。
p355第2パラグラフ。
長い譬えなので、短い言い伝えに要約することもできます。「放蕩息子」の最後の10ほどの単語が、要約になるだろう、と私は考えます。「あなたの兄弟は死んでいたのに、生き返ったんです。あなたの兄弟は、迷子になっていたのに、見つかったんです」。 そして、再び、その「道」は、あなた方の「中」にあると同時に、「間」にあります。そして、お父さんは2人の息子たちを大事にする点で忠実です。2人は家族の中での立ち位置も、人柄も全く違っても、お父さんは2人を大事にしてくれます。ほとんど母親のようだと、読者の中には言いたくなる人もあるでしょうし、あるいはまた、この譬えのテーマ、世代間の関わりを癒すことを見直すときには、問わずにはいられないでしょう、「比べるというこの世的な見方では、母親は生きていたのか、死んでいたのか?」と。もし母親が生きているとすれば、その母親も「こんちは」とあいさつしないでしょうか、するはずです。しかし、譬えは事例史でもなければ、歴史でさえありません。神様と暗に比べると、覚えておかなくちゃぁならないことは、族長「制」や用語法の規定による、男らしさにおいては、神様の最も大事な性質は、その魂は、どんな性格描写という枠を超えて、どこにでも存在する、という性質です。すなわち、神様は、神様の名前が示すように、いついかなる場合でも、「≪いまここ≫におられる」のです。
私どもにとって、圧倒的な福音は、神様がいつなんどきでも≪いまここ≫におられる、ということです。見捨てられることは、ひとかけらも、ない、と言い換えることができます。それは一見「見捨てられたなぁ」と感じざるを得ない状況に陥った時でさえ、神様は「見捨てられたなぁ」と思う、その≪いまここ≫におられる、ということです。その時には、神様が≪いまここ≫におられることに、私どもが気づけないだけ。
読者のひとりひどりが、自分の来し方を振り返っていただきたいのですが、自分が最も苦しい、と感じた時にも、不思議に「道」は開けてませんでしたか?
それに気づいた者は、
本当に、「信頼」が深まりますこと、間違いなし。
真実に、「自分」を確かにできること、間違いなし。
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