倫理がバラバラですと、自分を確かにするのは夢のまた夢。
p241ブランクの下11行目途中から。
戦闘員、完全武装して、他の人が自分にしようとしていると予期していることを、その当人にしようとしている人は、黄金律と自分が戦う理屈の間に、倫理的な矛盾が全くないことが分かります。その戦闘員は、実際、敵に対して敬意を払うこともできますね。その戦闘員は、敵にも自分に対して敬意を払ってもらいたいと願っています。倫理と戦いがこのように辛くも同居していることは、私どもの時代にずっと残るかもしれませんね。戦う心理さえ、戦う心理が歴史的に果たす役割を恐れるようになっても仕方がありませんね。それはちょうど、果てしない虐殺が、計画した戦争になったのと同じです。「核時代」の「黄金律」で、「戦っている者」にとってさえ、何が残るものがあるのでしょうか? 何か残っているとすれば、それは「他の人たちを殺すなかれ、自分たちが敵を徹底的に殺し尽くすし、敵も自分たちをちょうど同じくらい徹底的に殺し尽しても構わないと確信できない限りは、」といったところでしょうか?
「黄金律」は「仕返し」と似ています。「自分を大事にするように、身近な人を大事にしなさい」という、キリスト教の最大の「黄金律」は、「眼には眼を」というハンムラビ経典という、同害復讐法、「仕返し」と似てますもんね。
核時代の黄金律はもうない。核は使ってはならないものなのですね。人倫を超えた武器だということでしょう。エリクソンは主張は、「人類が滅亡しても構わないと確信を持てない限り、核兵器を使うな」ということでしょう。それが最後の引用句の意味するところでしょうね。
この部分を、かの鑪幹八郎さんの翻訳(誠信書房)で、初めて確かめてみましたけれども、もう滅茶苦茶。ホンマに翻訳本って当てにならないものが多いです。鑪幹八郎さん、大学の学長までやっても、滅茶苦茶な翻訳しかできてない、ということは、エリクソンをちゃんと理解できてない証拠です。
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